枯れた翼の涸れた骨




 ぼくは父が大好きだった。
 いつもわけのわからないことばかり言う人だったけれども。

「見えるかい、佑(たすく)。お母さんの背に羽根が生えているだろう?」
 父の指差した先には寝ている母。
 子供のぼくには病弱な母の背にある羽根は見えなかった。父にはその事実がもどかしいらしかった。
「お母さんが好きなら見える。あの羽根が生えきったらお母さんは空へ飛んでいってしまうんだよ。お父さんはそれを止めなきゃいけない。そうしなきゃいけないんだ」
 父の固い決意の言葉より、好きなら見える。の一言のほうがよほど心に深く突き刺さった。
 ぼくは母も好きだった。
 とても体が弱く、長い入院であまり一緒にいることは出来なかったけれども。
 項垂れたぼくを父が大きな掌で慰めてくれた。



 やがて母は死んだ。
 ぼくは父の言った言葉の意味が正しく理解できるようになっていた。
 仰向けに寝る母の背に白い羽根。
 正しくそれが見えた。断じてシーツや毛布の白じゃない。言い切れた。
 けれどなぜか父はその日以来ぼくの前に姿を見せなかったし、ひとりぼっちになったぼくは小さかったから親戚の家に預けられた。
 ひそひそと囁かれることはどうやら父のことらしかった。気にはなったがどうしても聞き取ることは出来なかった。
 父は母を深く愛していた。彼女がいなければ生きていけないのではないかと思うほど。
 きっと、あの羽根が成長するのを止めるためにとても頑張ったのだろうと思う。そしてそれで父は死んだのだ、きっと。

 時は過ぎ。

 はらりと。
 麻友(まゆ)の袖から白い羽根が落ちた。
「……っ」
「あー、どーりでこそばいと思ったぁっ」
 納得した、と彼女は開いていた制服のブラウスから手を引き抜いた。
 麻友は佑が預けられた親戚の子供で、預けられる前からまるで姉弟のように仲良く育った。
 家が一緒になってからは学校も一緒で。いつしか地域公認のカップル扱いになって、それは自分も厭なことではなく、彼女もそうであったらしい。
 ぼくらは周りに固められて、お互いそれと望んで付き合うようになった。
 用を果たしたブラウスのボタンをかけようとする彼女の手に手を置いて留める。
「あれ、どしたん?」
「……確認、させて」
「いやん、佑のえっち」
 そう言うわりに誘うような笑みを見せた彼女がふとまじめなものに変わる。
 たぶんぼくの顔はぼくが思うより派手に血相を変えているのだろう。それとも顔色をなくしたというやつだろうか。
「どうしたの?」
「どうしても。何もしないから」
「しょうがないなぁ、じゃ、いいよ」
 一度はかけかけたブラウスのボタンをさらに外して、躊躇いなく晒された健康的な肩のラインに少し見蕩れた。其処に生えるのは白い羽根。
 ぽやぽやと、まるでひよこのように頼りない羽毛。
「……っ」
 慌てて撫でた、毟ってみる。白い羽根が抜けて散る。くすぐったい、と、けたけた麻友が笑った。
「ホントどうしたん? どうせならこのまま肩揉みしてやぁ」
「いいよ」
 肩を揉むふりをして目に付く白をはらっているのにどんなに頑張っても羽根は減らない。
 恐ろしくて彼女の背に顔をうずめた。ちょっと! と言う抗議は一言だけで。
「何か嫌なことでもあったん?」
 尋ね返す彼女の気遣わしげな声に、麻友がぼくの前からいなくなるなんて考えられないと改めて思った。
「……うん」
 ねぇ、体の具合は悪くない?
 恐ろしくて口に出すのもはばかられた。
 もしもそれで「うん、実は……」なんて切り出されたらどうすればいいのだろう。麻友が母のように病院で暮らすことになったら。
 母のように、助からなかったら。
 父はこの羽根を消す方法を知っていたのだろうか。知っていても、実行しても、ああして母は死んでしまったのか。
「麻友に昔、言ったことがあったね」
「ん? なんだっけ?」
「母さんに生えた白い羽根のこと……」
 ぎくりと麻友が肩を揺らした。
「……そんな昔のことがどうしたん」
「……どうしたら、良かったんだろうって」
「……いまさら?」
「……うん。いまさら。考えてる」
 君の背に、いまその羽根が生えてきている、なんてとても言えない。
 ぼくは、君を、助けたい。
「そうやなぁ……どうすれば良かったんやろ」
 はぁぁとぼく以上に深い溜息を吐いて麻友が答えた。


 けして彼には言えない。

 言うことができない。

 彼の父が犯した罪と。

 唆した私の罪を。


「やっぱ毟るか切るか、しかないかもね」
「……切る?」
「そ、根元からばっさりと」
「……そんなこと、出来るのかな」
 切ると言う単語が似合わないほど、翼はか弱く頼りない。たいしたことなさそうに少女がうーんと伸びをする。
「ねぇ麻友……少しこのままでいて。ぼくが何をしてもそのままで」
「んー?」
 少し力をこめて引っかいた。
「こら、痛いってば」
「少しだけ、我慢して」
 羽根が根元からポロリと落ちた。
 いける。
 彼女がそれで救われるなら、ぼくはこれからの一生、彼女の背の羽を毟り続けてもいい。
 爪を立てて引っかくたびにぽろぽろと白い羽根が舞い落ちる。



 神様、これは罰ですか。
 私がしたことに対する懲らしめですか。
 私は何も悪意などなくただ純粋な気持ちで――――あの人に言っただけ。

「空の天使には白い羽根が生えているんだね」

「死んだらみんなお空の国に行くんだね」

 子供心に忘れることが出来ません。
 あの日見たあの美しい人の背から広がる一対の赤。
 それは、まるで天の翼のようでした。

 そして私を断罪する赤でした。



「……全部、抜けた……。麻友、終わったよ、もういいよ」
 白い羽根は部屋中に広がって、うつぶせの恋人もその白に埋もれている。
「麻友? ごめん、時間がかかったね。でもやりだしたら止まらなくなっちゃって……麻友? 寝てるなら毛布を持ってくるよ」
 ぴくりとも動かない彼女を不審に思いながら、それでもやるべきことはやったのだと佑は満足して毛布を取りに部屋を出た。








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