旅立ちの朝 キルス




 日は昇ったとはいえ空気はまだ冷たい。薄曇りの空のもと、ひとりの少年が旅立とうとしていた。手入れの行き届いた金の髪に、強い意思を秘めた藍色の瞳。まだ若い彼の母親が底冷えする朝の空気より冷たい藍色の瞳で少年を見ていた。
「良いですかキルス。勇者選抜に行くとはいえお前の一番の目的は我が家の嫁に相応しい女性を見つけてくることです。そもそもお前があんな女に入れ込まなければこんな面倒はなかったものを……。まあ、過ぎたことを言ってもはじまりません。いままで破棄された婚約者ほどの娘をお前には期待しません。掴まるのはせいぜい金に汚い豪商の娘程度でしょうが、品格と知性を持った娘を見繕って連れて来なさい。結婚相手さえ見つかれば、勇者選抜などというくだらないお遊戯にうつつを抜かす必要などありません。すぐに戻ってこの家と爵位を継ぐのです。良いですね?」
 母の念押しに「充分にわかっていますよ」と氷のような冷たさで息子も言い返す。
「わかっていればいいのです」
 言いたいことだけ言うと、息子を見送ることもせず、母はくるりと踵を返して屋敷に戻っていった。屋敷の扉をくぐる母の背中を見送るキルスの目はきりきりと尖っている。旅立つ彼を見送る者はひとりもいない。
 使用人が開いた扉を、わずかな荷物を背負って出て行こうとするキルスを「おとうしゃまぁ」と幼い声が追いかける。キルスが振り返ると彼をそのまま幼くしたような子供がぱたぱたと屋敷を出て、庭を通り抜け、キルスのもとに駆け寄ろうとしていた。母の前では尖っていたキルスの瞳が優しく緩む。
「ラッティ」
「おとうしゃま、らってぃもいっしょにいく」
 キルスは首を横に振った。もうすぐ三歳になる娘に合わせてしゃがみ、目線を合わせて言い聞かせる。
「お父様は勇者選抜に行くんだ。自分にどれだけの事が出来るのか知りたいからね。ラッティもひとりで寂しいだろうけれど、昨日も話しただろう? お父様も頑張ってくる。だから、ラッティもばぁやや先生の言うことを良く聞いて、素敵なレディになっておくれ」
「でもぉ……ううん、らってぃ、まってる。がんばって、すてきなれでぃになって、おとうしゃまをおむかえするね」
 にこっとまるで花が咲くような笑顔で娘が言った。
「おとうしゃま、いってらっしゃい。がんばってね。らってぃはいつもおとうしゃまのことをおいのりするわ」
 見送りはその笑顔だけで充分だ。
 可愛い娘の頭をひと撫ですると、娘はくすぐったそうに眼を閉じた。
 あんなことがあって、その結果として生まれた娘だけれど、厭わしくなんて思わない。むしろ日々増す愛らしさに目を細める日々だ。
 嫁なんていらない。家の都合なんか知らない。恋愛なんかしたくない。
「ああ、お父様はきっと勇者になってくるよ」
 勇者になって、自分を取り巻くなにもかもの鬱屈を全て晴らしてやろう。









旅立ちの朝 ジェイド




 ベッドの中で美少女がぐっすりと眠っている。薄茶の長い髪を白いシーツにたゆたせて、顔の傍にある細い手は緩やかに握りこまれ、長い睫毛が白い肌に影を落とす。血色のいい桜色の唇。
 濃緑のカーテンを寄せるように集めて、その姿を美青年が熱っぽく見つめている。
 部屋の外はもう日が高い。窓の外は爽やかな風が吹いている。けれどこの部屋はまだ、夜。今ようやく、目覚めを迎えようというところ。
「……兄さん……」
 窓辺に立つ青年が吐息を漏らす。そっと近付いて、少女が眠るベッドの上に乗る。僅かに軋むシーツにも彼女の起きる気配はない。
「……兄さん……」
 呟かれる言葉からすると、どうやら見た目美少女な眠り姫は彼の兄らしかった。それにしたって弟である彼のほうがよほど『兄』らしい。
 兄の上に四つんばいになって、そっとその耳に囁く。
「……兄さん……」
 それからそっとその可愛らしい耳に想いの丈を打ち明けようとした。
((こ、これ以上は無理!!))
 弟が結局触れることもないまま勢いよくその身を上げてベッドからまろびでる。熟睡していたと思われる兄がぱちっと目を開いて勢いよく上半身を起こす。
「お、おはようございます、兄さん」
「ネフラ、おおおはよう」
 お互いどことなく顔が赤い。
「今日は出発の日ですね」
「うん……」
 ネフラの言葉に兄が曖昧に頷いた。
 神国アウスファンクトで行われる勇者選抜大会。
 勇者に付与される名誉と特権は絶対に利潤を生む。しかも、その勇者には大陸でひとりしかなれない。プレミアものでブランド品だ。
 こんな、いい商売になりそうなものをほおっておくなんて商売人としてできるわけがない。
 そう思ったからこそ、今日、兄は勇者の称号を得るために旅立つのだ。
 だが、その旅は長くなる。勇者選抜大会も優に一年を超える期間。
 次に兄弟が再会できるのはいつになるのだろう。
 だから勇気を出そうと思ったのに、どうしても最後の一歩が踏み出せなかった。
(ジェイドって呼びたい)
 ネフラは胸の内でぽつんと呟いた。
 無茶なことだとわかっている。いくら女のような見た目とはいえ、それでも血の繋がった兄に憧れる自分は可変しいに違いない。
 まるで可愛らしい娘のような兄の隣で、まさに勇者のように堂々と傍に立ちたい。兄を守り、ともに世間を相手取り、世界と戦いたい。
 ネフラの願いはそれだけ。兄を助けることだけだ。
「……私も一緒に行きたかった」
「しょうがない。勇者選抜大会は男性限定だもの」
 さばさばとした口調で答えた兄からは、長い間ネフラと離れる寂しさなんて感じ取れない。
「私はどうして男じゃないんだろう。誰が見ても男と同じ姿をしているのに」
 180センチに近い均整のとれた身体。力強い手足。ネフラを見て、一見で『女性』だと看破できた者はいない。
 愚痴ったネフラにジェイドが軽く笑った。
「今日も可愛いよ、俺の大事な妹」
 ベッドの上に座る兄が拗ねた目を向ける妹を優しく引き寄せた。
「私を見て可愛いというのは兄さんだけです。血が繋がっていなかったら、兄さんだって女だとは思わないでしょう?」
 兄の肩口に顔を埋めて、咎めるようにネフラが言った。並みの女よりよほど可愛い顔をした兄は妹のその言葉に嬉しげに眼を細める。
「ネフラは俺の理想だよ。……さぁ、父さんや母さんも待ってる。ご飯を食べに行こう」
「寝坊したのは兄さんです。早く着替えてください。私は部屋の外で待ってますから!」
 ぱたぱたと背の高い少女が部屋を出て行く。男物のぴったりとしたズボンのラインを見ながら苦笑して「ドレス着たら良いのに、ネフラったら」と青年が呟いて笑った。



 いまのところ彼女を女性として見れるのは彼ひとり。
 いまだ平穏なブラスティ家の朝だった。









旅立ちの朝 ラズーライト




 昔から、なんでもできる子だと言われて育った。

「大丈夫、自分の責務を忘れたりはしません」

 ラズーライトは安心させるように父である皇帝と兄弟姉妹に笑ってみせる。一番小さな、唯一ラズーライトと同じ母から生まれた弟がきょとんとそんな兄を見つめている。

「俺はこの皇国カイセレスの第一皇位継承者。その重みを忘れることなんてありません」

 藍い瞳の天藍眼。
 事実、自分は大概のことはなんでもできる人間だった。
 皇国の皇子という地位もあって、欲しい物は口にするだけでいくらでも手に入れることができたし、やりたいことがあればそれもだいたい叶う。見様見真似である程度のことはこなせた。勘がいいとかセンスがいいとか、教師方には褒められた。
 けれど褒められても嬉しくなかった。
 だって、なにをしても面白くも嬉しくも悔しくもつまらなくもない。呼吸をするのと変わりないほど、意識も興味も持てなかった。
 だから流行のものはなんでもやった。絵を描くのが流行だと聞けば描いたし、雪山を橇で滑り落ちるのは面白いと聞けば滑った。その他いろいろ。どれもそれなりにできるけれど、そのどれもを楽しいと思えなかったし、特に一番になるものはなかった。けれどそれを悔しいと思ったことがない。
 熱心になれるものがあれば、その『一番』をとるのに必死になるだろう。でもいままで、ラズーライトはなにかひとつに熱中した試しがないのだ。

 他に欲しいという者有れば、自分の持っているどんな物でも手放した。
 助けてくれと言われれば、なにをしていても中断して相手を手助けした。
 蹴落とそうとする者有れば、笑って蹴落とされてやった。

 そんなことをしているうちに、ラズーライトには『いい人』の称号がついてしまった。

 ただ、どんなものも大切に思えないだけなのに。

 勇者選抜。
 神国アウスファンクトで二、三十年に一度行われる勇者を決める大会。
 参加資格は十五から三十までの男性であること、それのみ。外国籍だろうが、王族だろうが、平民だろうがかまわない。
 たったひとつ『勇者』を求めて競うのだ。
 そこになら、自分が大切に思うものができるかも。
 そこでなら、必死になることもあるのかも。

 そんな譫言を、自分の名誉が傷つかぬようそろりと父の耳に入れ、その意思を誘導した。結果、父はラズーライトに勇者選抜に参加するよう申し渡した。
 その過程で『第一皇位継承者』の立場をどうでもいいと思っていることに気づかれたが、しかしそれすら、勇者選抜大会に行くための材料にすることにした。

 多くの人間が同じ目的を持ち、競う中に居れば、自らの中に皇位継承者としての責任感が芽生えるのではないかと切々と打ち明ける演技。父はころりと騙された。……まあ、次期皇帝にその職務に対する責任感がないという事実に焦りを覚えたのかもしれない。
 父の時代から続く有能な官吏も、己が集め育てた腹心もいる。皇帝になればなったで、適当に国を導ける自信はあるのだが、親に与えた不安を解消するのも子供の役目だ。原因は自分でもあることだし。

「では、父上、みんな。行ってまいります」

 ラズーライトが真面目な表情で、それでも口の端を持ち上げたまま挨拶を済ませた。


 城がどんどん遠ざかる。
 本来なら、次期皇帝という立場の重みと国どころか山脈まで超える遠い目的地まで馬車で行くのだろうが、すべて『自分の力を試したい』と断った。
 どうせ、自分は『第一』皇位継承者。もし自分が居なくなっても二番目三番目と居るのだし、自分になにか遭っても国はどうにかできる。
 そんなことより早く人目のないところに行きたかった。誰も自分を知らないところ。
 それには従者もメイドもラズーライトを守ろうとする騎士たちさえ不要。
 たったひとりで城を出て、その城も見えなくなると、ラズーライトは思わずにっこり微笑んだ。
 これでしばらく出来のいい皇子さまも優しい兄上もお休みだ。
 ラズーライトは嬉しげにほうっと息を吐き出した。
 勇者になることなんか興味はない。どうせなったって皇帝と同じだ、つまらない。でも、こうやって『自分』をやめるひと時を手に入れたことは悪くない。
 なんとも気楽で、見えない先が楽しみだ。
「さて、どうやってアウスファンクトに行こうかなあ」
 立場上知人はいたるところにいるが、自由を満喫するなら彼らとはなるべく接触したくない。
「友達、できるといいな」
 大陸縦断の長旅と、そのあとの勇者選抜大会おまつり。きっとそのお祭りにはたくさんの『自分を知らない』人たちがいるだろう。
 休暇はとても楽しめそうな予感がした。









談話  ゴーシェ




 午後の穏やかな日差しが庭園に差し込んでいる。薔薇の生け垣は最近流行の迷路に形作られているが、いまその中で遊ぶ者はいない。
 今この屋敷に来ている客は女主人の甥だけだからだ。
「……」
 唇を尖らせて上目づかいに甥の様子を窺いながら、モルガナが「呆れてる?」と尋ねた。手は落ち着かなげに薄いティカップを捏ねくりまわしている。その動きに合わせて琥珀色の水面が揺れて陽の光を反射していた。
「いいえ」
 常と変らぬ優しい笑みを浮かべて、ゴーシェが否定した。黒目がちの茶色い瞳が優しく伯母を見守る。
 白いテーブルクロスがかけられた小さなローテーブルを挟んで、それぞれがゆったりとしたひとり掛けのソファに座り向かい合っていた。開いていた窓から時折、風に乗ってふわりと薔薇の香が届く。
「ただ、残念なだけです。先日の誕生パーティはクレース公自ら伯母上を招かれたんでしょう?」
 甥の口から発せられた愛しい人の名に、モルガナがむしろ辛そうな顔になった。
 ブラド・ライト・クレース。モルガナがこの十年あまり……甥にバレてからは実に五年以上経つ……密かに想いを寄せる相手だ。お互いの年齢や立場、なにより引っ込み思案なモルガナの性格もあって、ブラドとモルガナは職場の良き同僚という仲から一歩踏み出せないでいる。
 そもそも、その立場も大きな障害なのだ。
 アウスファンクトを治める法王を手助けする六枢機。そのひとりがブラドであり、もうひとりがモルガナなのである。なにかの拍子に男女の付き合いをもしできたとしても、それで周囲からブラスティ家とクレース家の政治的な癒着を疑われたら困る。
「ちゃんと親睦は深めたわよ?」
 甥の機嫌を窺うような視線になってしまった。ゴーシェはモルガナの恋愛相談……というか弱音に親身になって付き合ってくれるし、それを責めたりはしない。
 わかってはいるのだが、踏み出せない負い目みたいなものをブラドにでもなく自分にでもなくゴーシェに感じるのだ。
 もじもじ指を動かすと温い紅茶が手の中で揺れる。見つめていると紅茶にブラドの姿が浮かんできた。薄い髪に整えられた髭、職業柄か年老いてもいかつい肩。
「この年で誕生会もないが子供たちがやらせろと煩いんだ。もしよかったら付き合い程度に顔を出してくれないか、君が来てくれたら私も嬉しい」
 と、恥ずかしそうにはにかんで招待状を差し出したブラドは本当に可愛らしかったし、ブラドが手ずから書いた招待状にモルガナも舞い上がったものだった。
 一生懸命めかしこんで向かった先の誕生会ではもちろんなにも起こらなかった。
 モルガナは彼にひとつ年を取ったことの祝いを述べて贈り物をし、ブラドは家族に囲まれながらモルガナとも他の客とも等しく談笑した。恋心は報われないが楽しいひと時だった。
 たぶん私は、たくさんの家族に囲まれて彼らに愛されているブラドが好きなのだわとモルガナは思う。その輪を壊すような真似をしたくない。それが引っ込み思案による逃げの思考であったとしても、それもまたモルガナの真実だ。
「いつもどおりに?」
「そう、いつもどおりに」
 男女の枠を超えた友情を育んできた。
 ゴーシェの確認にモルガナも同意し、しばらく沈黙。突如ぐいっとモルガナが冷めた紅茶を飲み干した。
「だってね、緊張しちゃうのよ! もうすぐ60になるのに、恋愛なんてどうしたらいいの? おばあちゃんがいい年して男漁りしているなんて周りに思われたら辛いじゃない!」
 モルガナが泣きそうになりながら甥に訴える。勢いよく紅茶を煽ったくせに空になったティカップを置く仕草には音がない。
「そんなものですか? 人を好きなるのに年齢なんて関係ないと思いますが」
 相変わらず不思議そうな顔。こればかりは実際に年を取っているかまだ若者かの違いだ。さらに言えば男女の違いでもあろう。
「関係あるのっ、恥ずかしいのっ。60なんてね、もう夫と別れたって再婚なんかしないわ、そういう年でしょう」
「伯母上は結婚そのものも一度だってされてないじゃないですか」
「確かに未婚だけど! それに、ブラドはこの国の将軍職に就いているのよ、わたしだって、宰相としての仕事があって、いまのままで好いたの惚れたの言ったって政治的な癒着だと思われるかもしれないし、そうよ、ブラドにだってきっと、私が好きだなんて言ったら政治的な意図があると思われるわ、私はただのひとりの女じゃないんだもの」
 うんうんとひとりで納得してしまったモルガナを見てゴーシェが天井を仰ぎ見る。
「ですから、いつでも俺が伯母上の代わりをすると言っているじゃないですか」
 そうすれば仕事という制約が取れてただのひとりの女になれるだろう。
 もっとも“ただのひとりの女”になった伯母がそれでブラドに求愛するかと聞かれたら、ゴーシェはしないだろうなと思う。仕事ではともかく、私事では本当に憶病な人なのだ。
「駄目よ。いずれはそれも考えているけれど、お前はまだまだ若すぎます。まずは所領をきちんと治めて政治の勉強をして頂戴」
「かしこまりました。……本当に、ブラスティは人が足りませんね」
 自分が国を導く仕事をするにはどう考えたって早すぎる。なんの経験もないのだ、出来るはずがない。だが、伯母を楽にしてやりたい気持ちも確かだった。伯母は仕事を盾に、甥の育児を矛にして、人生のさまざまなことを諦めているようにみえた。この恋だって、仕事が、年齢が、相手には死んだとはいえ愛する妻が、とどこからか理由を見つけてきて尻込みする。他にもうひとりでいいから、伯母が安心して仕事を任せられるような者がブラスティ家にいればよかったのに。
「そうね、流行病でたくさん死んでしまったものね」
 ゴーシェが嘆きにモルガナも同調した。
「私もすっかり年を取ってしまったし、あなたも家を背負って立つにはまだ若いし」
「年を取ったって伯母上はつい先日50になったばかりじゃないですか」
 さすがに呆れた甥っ子にモルガナは噛みついた。
「10年なんてあっという間よっ。すぐにおばあちゃんになっちゃうわ」
「それならクレース公こそ60を超えられているじゃないですか。年齢的にもふたりがお付き合いして可変しいとは思えませんが……」
「その年齢が問題なのよ。もう落ち着いて枯れたっていい年じゃない? そりゃ殿方はいいわよ、その年でも恋をなさっているとなれば皆さまから持て囃され誉れになるけれど、女はそうじゃないもの。それに、いくらお年を召していたって、そういう方がお付き合いなさるのは若くてかわいらしい方ばかりよ? 私みたいなおばあちゃんじゃないわ」
「伯母上はまだおばあちゃんという年じゃないですよ」
「ほとんど変わらないわよ。そうね、誰が見ても若くて美しかったら、もしかしたら、ブラドに告白するくらいはできたかもしれないけれど」
 でもきっと、それだけ美しかったとしてもブラドに告白しないだろうとモルガナは思う。
 心配してくれる甥には言わないけれど、片恋に身を焦がす夜があってもブラドとのいまの関係もまた心地いいのだ。一歩踏み出せない理由の大半はそこにある。
 いまは立場こそ違えど同僚として対等だ。恋心を打ち明ければどうしたって関係は変わらざるを得ない。告白を拒否されるのはもちろん、受け入れられたとしても。周囲の男たちが妻を扱うように、ブラドが自分を弱い女として扱ったり、所有物のように思われるのはモルガナには耐えがたい。
「伯母上は美しいですよ」
 溜息を吐き出したモルガナにゴーシェが言う。なんとなく続く言葉がわかって、甥を見るモルガナの視線が冷たくなった。
「……馬に似て?」
「ええ、この前品評会で二歳の牝馬に出会いまして。その牝馬と似ています。うちにいる黒毛の牡馬にちょうどいいかと彼女を迎え入れる準備をしているところなんです。優しげな眼をした栗毛の娘で、尻も張っていていい子がたくさん産めそうです」
 モルガナの眉間に皺が寄り、吐き出す吐息が深くなる。今度の溜息はままならない自分の性格にではなく、甥の度を越した馬好きにだ。
 一目惚れした二歳の牝馬についてうっとりと語っているゴーシェに(この子の息抜きはこれなのだから)と思ってはみるものの、甥の将来が不安になる。
 ブラスティ家は六枢機に任命されるほどの公爵家だが、いま現在その血を継ぐ者はたったふたりしかいない。宰相として外交を主にするモルガナとその甥で広い所領を伯母の代わりに統治しているゴーシェだけだ。
 ブラスティ家はもともと一族の数が少なかった。ブラスティ家は先祖に法王の血が加わっている。それ故に婚姻は法王の意向を強く反映し、その許可がなければ結婚はできなかった。ブラスティの血は濃く、生まれる子供の数は少なかった。
 また法王はまるで一度手放した血を回収しようとするかのように頻繁にブラスティ家から妻を娶った。現法王の母もブラスティ家の出身であり、モルガナは流れている血だけを見れば法王と従姉妹になる。
 そこに加えて15年前に国中で流行った病を治すのにブラスティ家は一族総出で奔走し、己が領地をはじめとして国に広がる流行病を次々に収めた。だがその代償と言わんばかりにブラスティの一族はほとんどが皮肉なことにその流行病で命を落としていた。ゴーシェがまだみっつだった時の話だ。
「お前の母と父もね、残念なことをしたわ」
 話が飛んで、ゴーシェが瞬きをする。それから、伯母がなにを嘆いているのかわかって苦笑した。
 伯母は亡くした家族をよく恋しがる。記憶があるからなおさら死んだ者たちが愛おしいのだろう。
「顔も覚えていませんから」
「だから言っているのよ。絵姿ぐらい描かせておけばよかった」
「顔は覚えていませんが、どんな顔をしていたか想像はつきますよ。俺と同じ顔でしょう?」
 きっと茶色の髪に茶色の目、馬みたいな顔をしていただろう。馬が好きだったという話は聞いたことがないが、ゴーシェが物心ついた時に屋敷の馬房には良い馬ばかりが揃っていたのだから、それなりに馬を見る目はあったはずだ。それだけでも死んだ父は尊敬に値する。
「そうね、あなたは若かったあの子とよく似てるわ」
 年の離れた弟を思い出してモルガナはゴーシェを優しく見つめる。茶色の髪も優しげな眼もまるで死んだ弟に生き写しだ。
「……あの子がドーローンと婚約したのは今のあなたくらいの年だったわね」
 法王にゴーシェの結婚を相談したほうが良いだろうかとモルガナは少しだけ考え、首を横に振った。
 法王の血が入っているブラスティの家を絶やすわけにはいかないが、ゴーシェに妻を迎えるのは早すぎるだろう。年齢はともかく、ゴーシェはモルガナから見ると馬にしか興味を持っていないように見える。そんな状態で妻を見繕っても、甥も妻に迎えた娘も幸せにはなるまい。
(ゴーシェに好きな娘がいると言うのならいくらでも協力するのだけれど、そういう話を聞かないのよね)
 恋愛でも、自分のことでは二の足を踏むが甥のことならばいくらでも協力できる。
「ゴーシェには誰か、いい人はいないの?」
「はあ。あ、そういえば先日馬の品評会で素敵な女性と出会いましたよ。馬のことで話が合って、牝馬を迎えるときに手伝ってもらうことになったんです」
 緩んだ表情は好きな馬を思う存分眺めることができた故かその女性によるものかわからない。
 性格も良くて、馬に詳しくて、と出会った娘を褒めている甥の発言を聞くともなしに聞いて「貴族じゃなさそうね」と口を挟むとゴーシェは頷いた。
 彼女と結婚するのは難しそうだとモルガナは要らぬ心配を先取りする。もしどうしてもというならどこかの貴族に行儀見習いとして養子に出し、そこから娶るのはどうだろうか。そうなるとどの貴族に預けるか、それが問題だ。
「品評会に出た牝馬を育てた馬飼いの娘です。情熱的でありながら献身的な愛を感じます。秋に結婚を控えて、いまは金を貯めているのだとか。それで、うちで馬の世話をするのに彼女を雇おうと思っているのですが」
 どうやら恋だの愛だのと言う感情には発展しそうにない。先行きが不安なような、まだ子供であることに安心するような不思議な気分で「あなたの家よ、すべてあなたの好きになさい」とモルガナは微笑った。
「ありがとうございます。実は伯母上にもうひとつ、お願いがあるんですが」
「なあに?」
「今度、勇者選抜大会があるでしょう。そのときに俺の屋敷を開放したいんです」
 勇者選抜に挑戦しに来るものは多いが、金銭的な事情で長居できない者も多い。そういった者を救済するため、アウスファンクトの貴族や懐に余裕のある者たちは彼らを援助するよう、法王に強く要請されている。とはいえ、それは参加しない者たちに限ればの話だ。
 自分が勇者選抜に参加すると言うのに、他の勇者候補を迎え入れる家は少ない。
「……あなた、勇者選抜に参加するんじゃなかった?」
 モルガナの確認に、はい、とゴーシェが頷いた。
 自分が一人前になれば、伯母は手にもった『矛』を失う。ゴーシェを育てるために心を砕く必要がなくなればそのぶん好きな相手に近づくことも増えよう。
 ゴーシェの見立てではブラドだって伯母を憎くは思っていないはずなのだ。モルガナに守るべき子供がいなければ、彼女自身が一歩を踏み出さずともブラドのほうから近づいてくることだってあり得る。
「ライバルを自分の屋敷に招くつもり?」
「ええ。ライバルと言えば険がありますが、俺も彼らもなにも変わりません。そのなかにはきっと、俺の知らない色々なことを知っている者も多くいるはずですし、他国の者も多くいるはずです。勇者になりたいのは確かですが、この機会にたくさんのことを学び、多くの者と知り合いたいんです。これはそのチャンスでもあるでしょう? 俺が知っているのは領地のことと聖都の地理だけですから。そのためにも、屋敷を開放して出来るだけ多くの者を受け入れたいんです」
「さっきも言ったけれど、あなたがそれでいいのなら、そうすればいいわ。あの屋敷はあなたの家として聖都に置いたのだから、自由に使いなさい」
 モルガナの言葉にぱっとゴーシェの顔が喜色に染まる。
「よかった、実はもう十名ほど受け入れているんです」
 叱ったほうが良いのかと考えて、モルガナは放っておくことにする。屋敷を自由に使えと言ったのは今日が初めてではない。あの屋敷をゴーシェに与えてから何度も言ってきたことだ。
「どんな方々?」
 水を向けると喜々としてゴーシェは語りだした。
「ひとりはザウベレイの公爵の出でキルスと言います。宿を探していると言われて、それなら家ではどうかと誘ったんです。とても意志が強くて見習うべきところがたくさんあります」
「ああ、マグニースィヤー家ね」
 柔らかな声こそ変わらないが、すっとモルガナの目が細くなった。
 少し前に醜聞を起こした家の息子だ。とはいえ、知っているのはザウベレイ国内とザウベレイの情勢に興味を持つ者くらいだろう。
 自らが汚した家の権威を回復させるために勇者選抜に来たのだろうか。
 スキャンダルのことは知らないのだろう、ゴーシェは「やはり公爵ともなると有名ですね」と笑った。
「もうひとりは皇国カイセレスの皇子でラズーライトといいます。驚いたでしょう? まさか皇子が勇者選抜に来て、それも俺の屋敷に泊まるなんて」
「天藍眼のラズーライトね?」
 皇国の皇帝から「息子を勇者選抜に出すことになったのでくれぐれもよろしく」と親書が届いていたが、まさか甥がその皇子を拾うとは。
「俺たちはラズルタズルと呼んでいます。とても気さくで人を笑わせることが上手いんです。細やかで色々なことに気づいてみんなをよくまとめてくれます。でも毎日いちばん活躍しているのはキルスとジェイドの喧嘩を仲裁することなんですけどね。そのジェイドと特に仲が良くて。ふたりはアウスファンクトに来る途中で知り合って、気が合って連れ立ってやってきたらしいです」
(……気さくな人柄だとはとても思えなかったけれど)
 以前カイセレスを訪れた時の第一皇子の顔を思い出す。モルガナたちを迎え、確かに微笑みこそ絶えなかったが壁を思わせる一線引いた態度。
 ラズーライトから向けられた常に値踏みをしている視線を思い出してモルガナは背筋を震わせた。彼が皇帝になったらカイセレスは大陸一繁栄するか、さもなければ彼の代で滅ぶだろうと思わせられた。あの子供は危うい。あれ以降カイセレスは注意を要するとしてアウスファンクトでは皇国の監視を強化している。
「そのジェイド、どこから来たと思います? エルスターレンですよ! カイセレスも遠いですが、エルスターレンなんて大陸の端からひとりでよく来たと思いませんか。それもね、伯母上も見れば驚くと思いますが、まるで本物の女の子みたいなんです。でも女々しいわけじゃないですよ。とても勇気があって、なによりいろんなことにまっすぐで一生懸命で、もし弟妹がいたらあんな感じかなと思う時があります」
「そうなの」
 迎え入れた仲間を紹介して笑う甥を微笑ましげに見やって(ブラスティ商会か)と腹の中で思う。ブラスティ商会はシルクルス教が嫌悪し、禁じている魔力の籠った品を取り扱っているという噂があった。
 エルスターレンではさほどシルクルス教の力は強くない。だが禁じているものを流通させる者がいれば見逃すわけにはいかない。魔術は消えるべき技なのだ。
 ブラスティ商会の商品は多岐に渡る。もとは画材屋だったが今は雑貨屋で、画材はもちろん武器に衣類に香料、食料の類、扱わないものはないと言われるほどである。
 15年前、アウスファンクトで流行病が起こったとき、ブラスティ家でもだいぶフェイエル商会には世話になった。病気に効く種々の薬草を探し、辺境に住む医者までも探し出してもらった。
(その恩があるから、出来るだけ手荒な真似はしたくないのだけれど)
 フェイエル商会の支店は大陸中にある。アウスファンクトまで到達し、魔術が籠っていると知りながら密かに使う者もいる。使用者は捕まるのに売り手であるフェイエル家はけして尻尾を掴ませない。油断できない相手だ。
 いずれフェイエル商会にはシルクルス教としても神国としても釘を刺さねばならないと思っていた。
(キナ臭いのばっかり拾ってきたわねえ)
「それから、聖都の入り口で出会ったのが……」
 あれこれと話す甥に相槌を打ちながら、甥の屋敷に監視をつけようとモルガナは決定した。ブラスティ家はいまふたりきりだ。もし万が一、彼らのトラブルに巻き込まれて可愛い甥になにかあっては困る。
「ゴーシェ、友人を褒めるのもいいけれど、ちゃんとあなたにも誉れがありますからね」
「勇者の子孫だと言うあれでしょう」
 ブラスティ家に法王の血が混ざったのはそれが理由だと言う。最初の勇者、魔王に攫われた聖姫を救い出した勇者がブラスティ家の先祖に居ると言われていた。真実はわからないが法王がブラスティ家を特別視していることは事実であり、やはりなんらかの関係はあると思われた。
「でもそれは昔のことで今の俺には関係ありません。俺は全力を尽くして自分の力で勇者に選ばれてみせます」
「そうね。全力で挑んでいらっしゃい。そうすれば得るものが必ずあるわ」
 笑顔で請け負った甥に、不意に不吉な影が差したような気がしてモルガナは瞬きをした。
(気の所為よね、きっと)
 物騒な噂のある人間が集まったから特に甥の心配をしているだけだろうとモルガナはわずかに首を横に振り不安を散らそうとする。口をつけたカップにはもう紅茶は残っていなかった。




***
ここでの設定を使うのは光の人と精霊の書なんですが、タイミング的に君と一緒に歩く夢で披露。





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