にわとりとたまご

生命はもともと宇宙に存在していて、
それがたまたま地球という土壌を得て生物になった、らしい。
人間は愛されないと愛せない、らしい。
循環する雨のように、問いかけは途切れることなく遡る螺旋。

それじゃ、ま、とりあえずきみを愛することからはじめてみようか。




***
1.雨やどり




 しとしと、しとしと。
 なにこれ、なんでこんな目に遭ってるんだろ、とイサナが溜め息を吐いた。
 細かい雨がしっとりと、けれど確実に服を湿らせ貫いて肌を冷やす。
 ちくしょう、マーナグダスの阿呆。
 どうして仲間のあたしより商売オンナを選ぶかな。
 いやまぁそりゃさぁ。あたし、胸はないし尻はないし、トリガラみたいな足してるし口喧しいし嫉妬深いし欠点なんか言い出したらもう、きりないんだけど。
 じんわり蒼の瞳に涙が浮かぶ。酒場から宿まで戻る街道の、レンガのうえで足が止まった。
 子供が水溜りにわざと足を突っ込む音も、止まない雨にカップルが溜息を吐くのもああああああどうでもいいどうでもいいどうでもいいのにこんなにも腹立たしい。
「くそったれ、マーナグダス!! 一晩いくらのオンナのいったいなにがいいんだよっ」
 くそう、みんな見てるじゃないか。
 叫んだら少しはスッとすると思ったのに。苛々はなお募るばかりで、いっそ子供みたいに駄々を捏ねることができたらどんなに気が楽だろう!
「なにがってやっぱり、胸かな?」
 後ろから聞きなれた声がして頭上からの雨が遮られた。
「やっぱふくよかぽよんぽよんの胸は全ての男の憧れだからねぇ」
「マーナ」
「マーナグダス。略されたらまるで女の子みたいじゃないか」
 振り返って睨みつけたら面白そうに赤い瞳が笑って文句を言った。でも昔からあたしはマーナをマーナと呼んできたんだ。いまさら変えるつもりはない。
「なにこれ」
「なにって、カカ蕗の葉」
 見上げて問うた緑色の大きな葉はそれでもふたりで入るには少し狭い。そこに自分も入ってきて「ほら、イサナこういう絵本みたいなの意外と好きだろ? 一緒に戻ろ」
 余計なことを言いながら、お互いの濡れた肩が少しぶつかる。生暖かい感触に、彼が踵を返して飛び出した自分を追いかけてきてくれたんだとわかる。
「子供の頃じゃあるまいし……その傘は?」
「出るとき借りてきた」
「捨てろ」
「借り物を捨てるのはねぇ……」
 そこでくつくつ笑い、悪びれもせずマーナが言った。
「通う口実もなくなっちゃうし?」
 ごすっとイサナの鉄拳が真横に飛んだ。その動きのままマーナグダスが倒れこみ、殴ったイサナの歩調が速くなる。
「ちょ、急になにするんだよ、イサナッ! イサナ?! こら、風邪引くってばぁっ」
 カカ蕗の葉を握ったまま後からマーナグダスの声が追いかけてくる。ぱちゃぱちゃ慌てた足音。髪を伝って顎を伝ってぽたぽた垂れる雨雫。



「ほら。機嫌治してよ」
 差しかけられた影と隣の人肌。空いた片手に傘がないのも横目で窺える。

 けど、振り向いてなんかやるもんか。




***
2.ずるい人




「だって、あのお尻は捨てがたいと言うかさぁ」
 えへへ。とマーナグダスがイサナの機嫌を窺うように上目遣い。両の人差し指をつんつんあわせて、「ね?! ね?!」と繰り返す。
 言っておくがマーナグダスのほうがイサナよりよほど背が高い。そしてその姿は本当にみっともない。いい男がやったってみっともない仕草はみっともない、と改めてイサナは思った。
 額に手を当てうつむいて、はぁぁとイサナが深く怒りの吐息を吐きだした。
 ああ、どうしてあたし、こんなんを好きになってしまったんだろう。
 ナンパだわ、スケベだわ、節操無しだわ。旅する道々で町でも村でも次々オンナ通い。
「だからぁ、あたしが言いたいのはさ」
「だってさぁ、子供のミルク代が必要だって言うんだもん」
「だから、それならなにも抱かなくたっていいでしょ?!」
 金だけ置いてくるような殊勝で謙虚なことは出来んのか、この男は。
「だって、仕事だって言うしさぁ……やっぱりちゃんと正当な報酬としての金品の受け渡しをしないとお互い心苦しいでしょ?」
「……尻に惹かれただけでしょ?」
「あ?! やっぱわかる?! そうだよね、あのひとのお尻はまるで女神ヒィアキントのように魅力的だったっ」
 やっぱり美しいものは同性にも伝わるんだね、と上機嫌で言うものだから、これまたイサナの神経を逆撫でる。
「あんたがさっき自分で言ったんじゃないの……っ」
「そうだっけ? いやそんなことどうでもいいよ。イサナとわかりあえるなんて嬉しいなぁ」
 イサナの両手を取って、嬉しそうにふんふんと上下にマーナグダスが振った。
「なにがわかりあうよ? あんたねぇ、ほんとにわかってる? あたしもオンナなんだけど?」
 込めた意味は自分でもよくわからない。欲求と言うより要求。
『私に触って』じゃなくて『もっと気を使って』
 下から拗ねるようにねめつけられてマーナグダスが虚を突かれた顔をした。
「もちろんだよ」
 それから、イサナの言葉に意味に気づいて満面の笑みを浮かべるとそのままイサナの頬に軽く口付ける。
「ぼくはイサナが大好きなんだ。だからイサナが『大きく』なるまで待ってる」



 同い年が何を言うか。
 そう思うのに、頬に誤魔化すような宥めのキスを受け入れてるのはなんでだろう?




***
3.8度2分




 ごほっ。
「……自業自得」
 ベッドの脇でイサナが冷たく毛布を被った青年に言った。
 ごほごほっ。
「酷いなぁ……これでも風邪引いてるんだよ? 優しくしてよ」
「なに言ってんのよ。昨日の夜。嵐が来てるのに『約束』の一言で夜這いに行くのが悪いんでしょ?」
 そこで体力使い果たして、折りも折り、旦那が帰ってきたからさぁ大変。ろくに着衣もままならないまま、慌てた奥さんに外におんだされた。
 下着一枚で宿に帰るわけにもいかず、ズボンを穿こうとすれば上着が風にもっていかれ、上着に袖を通そうとすればズボンが風に踊らされ。そうこうしているうちに手に持ったはずの靴が行方不明。
 仕方ないから裸足でぺたぺた帰ってきて、イサナにバレたらどんな文句を言われるかわからないと濡れたままベッドに直行。
 当たり前だが寝具はしっかり雨を吸って、冷えて湿った毛布は中に居る青年を病気にした。
 ……これを莫迦と言わずして、いったいなにを莫迦と言おうか?
「ほら、脇上げて……うん、8度2分。これに懲りてもうおいたは止めるのね」
 マーマグダスの脇に挟んだ体温計を取り上げ読み上げて、イサナがにんまり笑うと、笑顔とは裏腹な優しい手つきでぽんぽん毛布越しにマーナグダスを叩いた。



「もっと熱が出そぉ」
 真っ赤な顔で呟いてマーナグダスが毛布を半分被った。




***
4.大嫌い




「ほんとにあんたって懲りないわねっ」
 もう両手両足使ったって足りやしない。柳眉を逆立てるイサナに曖昧にマーナグダスが笑う。
「だってさぁ……ほら、世の女性がぼくを呼んでると言うか」
「なぁにが呼んでる。よ! いい加減にして!」
「いや、ほんとほんと。現に今晩もお誘いが三件ほど。とりあえず日没と夜半と夜明け前にわけてるけど回りきれるかどうか」
 はっぁっぁっぁっぁ。
 変な溜息の吐きかたに「イサナ、具合が悪いの」」とマーナグダスが彼女を覗きこむ。
 悪いのは具合じゃなくて機嫌よっ!!
 いつもならそう言えるのに口から飛び出た言葉は「あんたなんかもう大嫌いっ! どのオンナのとこでも行きたいとこに行きたいだけ行けばいいんだわっ! もう知らないっ」
 言ってからなにより自分が青ざめた。
 だって、マーナグダスを好きなのはイサナで、イサナをマーナグダスが好きなわけじゃない。
 ああそう、じゃあさようなら、と言われたらそれきりなのだ。
「……だったら今日はイサナの側にいるよ。約束した三人には悪いけど、イサナとはこれからもずっと一緒にいたいから」
 困ったような笑顔を向けて、マーナグダスがイサナを抱きしめた。
 耳元で優しく囁かれる言の葉。
「みんなには明日まとめて逢ってくる」
「〜〜〜あんたなんかほんとにほんとにだいっきらい〜〜っっ」
 マーナグダスの腕の中でイサナが喚いた。




***
5.天のじゃく
6.嘘吐き
7.残酷な指先





***
8.涙




 流した涙は生温かくて拭っていった指先は熱っぽかった。
 まだ同じ目線のまま見つめあって「いつか必ず迎えに行くよ」と約束を交わし、「一緒に冒険しよう」と指切りをした。
「ねぇ、約束だよ。絶対の絶対に約束。おっきくなったら」
 それは遠い昔……のはなし。
「……あんたは覚えてないわよね」
 ぽつりとイサナが呟いた。
 十年後、故郷に帰ってきた彼は確かに約束を覚えていた。

「迎えに来たよ、冒険にいこう!」

「え?」
 イサナの呟きに、マーナグダスがぱちぱち瞬きし、その反応に、そばに件の青年がいることをイサナが思い出して、少し身を逸らせると自分の後ろにいるマーナグダスを見上げた。
「なにを覚えてないの?」
「やくそく」
 マーナグダスが食堂の木椅子に座るイサナを椅子の背ごと後ろから抱きしめる。
「約束なら覚えてるよ。だから冒険に誘いに来たんじゃないか」
「その先は?」
「……そのさき? なんだったっけ」
「だから覚えてないって言ってんのよ」
 イサナが俯いて涙の滲みかけた目元を誤魔化した。

「ねぇ、約束だよ。絶対の絶対に約束。おっきくなったら結婚しよう」

 なんて、
 狭い世界しか知らない子供同士の約束をずっと真に受けてたなんて、自分がいかにも子供じみてて。




***
9.捨て猫
10.一人ぼっち
11.二人きり
12.はなして
13.傍にいて
14.眩暈
15.ひみつ
16.名前
17.約束
18.紫煙
19.うたかた
20.待ちぶせ
21.滴るように落ちていく
22.幻燈
23.カケラ
24.少年玩具
25.蛍
26.君は百合の花
27.やさしい手のひら
28.先生
29.カンタレラ
30.君のカナリヤ、僕の猫
31.桜散る
32.傷
33.いたずら
34.後悔
35.許さない
36.絶対服従支配者論
37.壊れゆくこの世界で
38.寒椿
39.独占欲
40.代償
41.束縛
42.ペット
43.カプチーノ
44.命令
45.つまさき
46.爪痕
47.泣かないで
48.背中
49.狂おしく
50.しずく
51.罰
52.罪
53.あがない
54.血
55.人形
56.牢獄
57.夜露
58.鳥籠
59.月光
60.堕天
61.かげろう
62.溜息
63.宵宮
64.紅い華
65.青い影
66.誓い
67.シルシ
68.すれ違い
69.閉ざされた口唇
70.伝言
71.林檎
72.ガラス
73.プライド
74.熱帯夜
75.神様の嫉妬
76.標本蝶々
77.わがまま
78.猫の眼
79.茨の海
80.声
81.お気に召すまま
82.じゃじゃ馬ならし
83.バビロン
84.鎖
85.雪うさぎ
86.狼少年




***
87.となりあわせ




 イサナとは小さなときからずっと一緒に育ってきた。
 いわゆる、幼なじみ。
 血も繋がっていないぼくらだけれど、子供のときはよく間違えられたものさ。もちろん、顔が似ていたわけじゃない。例えば、性格。読書や音楽が好きなぼくはやっぱり男にしては女々しいと言われたし、他の女の子達みたいに日焼けを気にする事もなく外で活発に動き回るイサナは男勝りとかなんとか、お互いそれぞれ悪口めいた事を言われたものさ。まあ、イサナはそんな陰口を叩く連中をみんな喧嘩してぶっ飛ばしてしまって――これには少々、いやかなりぼくもすっきりしたもんさ。
 好物も一緒なら特技も一緒、口癖も一緒だし、寝返りを打つタイミングだって完璧におんなじだった。
 ぼくはなにをすればイサナが喜ぶか知っていたし、なにを言えば嬉しがるかも知っていた。もちろんイサナもおんなじだ。イサナはいつだってぼくを楽しませてくれた。
 一緒に過ごしている時間が自分の両親の次に長かったからかもしれない。
 ぼくがなにを言わなくてもイサナはぼくの事をなにもかもわかってくれる。
 イサナがなにを言わなくても、ぼくはイサナの事が全部わかるんだ。
 そんな、莫迦な思い込みをしていた。
「イサナ? どうしたのさ、憂鬱そうな顔して」
 あの時が、ぼくたちは違う人間だとわからせる日だったのかもしれない。
「あのね、」
 困ったようにイサナが眉を下げる。イサナの言いたいことがわからないなんて、そんなこと、今までになかった。
 初めての事態にぼくは当惑し、とにかくイサナに言葉の先を続けさせた。
「どうしたのさ、言ってごらんよ」ってね。
 他の子相手ならともかく、イサナにこんな事を言うのは生まれて初めてだった。
「アミエルのこと、知ってる? 知ってるよね?」
「知ってるよ、知ってるとも! あの見栄っぱり。女の子の前でだけいい格好を取り繕って、結局何にも出来やしないんだ。季節じゃない花を取り寄せるのに花屋のヴェルに頭を十遍も下げたよ。それに本なんかちっとも読んでやしないのに知ったかぶりして、恥を掻くところを何回も見たよ、それだけじゃない、リッチーにお金を借りて女の子にプレゼントするんだ、まるで自分が金持ちみたいにふるまうのさ、あれにはリッチーも大激怒さ。もうお金は貸さないって怒ってる」
「バカ! ばか、ばか、ばか! マーナなんてきらい、きらい、大っ嫌い!」
 これまた生まれて初めてイサナに大嫌いと罵られ、ぼくはようやく自分の名前がマーナグダスだと思い出した。
 もう目が回りそうな体験さ。あんなの二度とごめんだね。
 びっくりして頭も口も身体も動けなくなったぼくを置き去りにして、イサナは泣きながら駆け出していってしまった。
 後から知った話だけれど、他の人からイサナの事を聞くなんて、言うまでもなく生まれて初めての経験だったんだけれど、どうやらアミエルはぼくの知らないところでイサナに花を贈ったり、プレゼントを贈ったりしてたのさ。だからイサナもころりと騙されて、アミエルのことが好きになりかけていたんだ。
 こんなことってあるかい?!
 ぼくらは今までぴったりひとつだったのに、アミエルのせいでぼくらは離れ離れだ。
 幸いにもイサナの熱はすぐに冷めた。いれあげる前に水を差したのが良かったみたいだ。災い転じて福となす、でもぼくにとってはとんだ災厄でしかない。
 イサナはぼくの事を嫌いだと言ったこともけろりと忘れてしまったようだけれど、ぼくは違う。
 だって、それまで築いてきたものが半分ごっそりなくなってしまったんだ。
 欠けた部分はどうやって補えばいい? イサナはもうぼくの中から抜けていってしまったのに。
 割れた皿はもう元の形には戻らない。膠をつけて、くっつけてやらなけりゃ。それと同じ、ぼくもイサナを引き止めておかなくちゃ元には戻れない。膠にするにはなにがいい? 考えるまでもない、そら、目の前に実例があったじゃないか!
 ねえイサナ、恋をしよう。
 アミエルのことをすっかり忘れたイサナは以前とそっくりになった。
 好物も一緒なら特技も一緒、口癖も一緒だし、寝返りを打つタイミングだって完璧におんなじだ。
 ぼくは何をすればイサナが喜ぶか知っていたし、なにを言えば嬉しがるかも知っていた。もちろんイサナもおんなじだ。イサナはいつだってぼくを楽しませてくれる。
 だけど、ぼくが言わなきゃイサナはぼくのことをわかってくれないし、イサナが喋ってくれなきゃぼくにはイサナのことがわからないのさ。
 それがほんとにほんとのことだった。
 だからぼくはイサナの嫌がることをする。
 イサナはぼくが離れて行っちゃうのが嫌なんだ。ちょうど昔のぼくとおんなじに。
「どうして、あっちこっち好き勝手に行っちゃうのよ! ジーナのどこがいいの?! わがままだし、意地悪だし、それに、男の子にはかわいい顔してるだけで女の子にはツンケンしてるのに!」
 顔中ぜんぶを口にしてきぃきぃ喚くイサナを見ていると安心するんだ。これは秘密。ぼくは緩む頬をそのままに「だって、彼女がぼくを必要としてくれるからさ」と答えておいた。
「ぼくを必要にしてくれる女性のところに、ぼくの居場所があるんだよ」
「なんなの、それ、なんなの、それ」
 同じ言葉を二回も繰り返して「どうして?」と心底困った顔をする。
「どうしてわかってくれないの?」
 だって違う人間だから。ふたりでひとつだと思ってた夢の時間はもうとっくに終わってしまったから。
 これからは隣り合わせに向き合って、お互いの顔をよく見て、気持ちを推理しなきゃいけないんだ――手を握ったり、離したりしながら。




***
88.花園
89.生贄
90.虜
91.邯鄲の夢
92.彼方
93.聖者のくちづけ
94.金魚
95.霧の中
96.比翼
97.拒絶
98.溺れる
99.火傷
100.永遠の終結




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