君ありて幸福




「もしも、世界から色が無くなったらどうする?」
「その時は注文する」
 画家の父に問われてアンナは笑顔で答えた。
 父が自宅とは別に建てたそのアトリエにはたくさんのイーゼルがあり、その上にも壁にも水彩、油彩を問わず絵が掛けられ、天井を見上げればカラフルな硝子の照明がぶら下がっていた。全ての色はアンナにとってあまりに身近なもので、無くなるなど到底考えられないことだった。
 だから、色がその場に無いのなら、有るところから取り寄せればいいと思ったのだ。




 そして、ある日あっけなく世界は滅んだ。

 それは些細な事だったのかもしれない。だが、全てのものから色が失われたという衝撃は計り知れなかった。
 ある瞬間、それは朝早くだったり、昼日中であったり、深夜を過ぎていた頃。突然、全ての人の目から色が失われた。
 世界中の誰もが驚き、まだ色を認識できる『もの』を探した。色が見える者も色が見える物も誰ひとつ、何ひとつ存在しなかった。
 色素が失われたわけではない。林檎は赤いし、じゃがいもなら白い。猿の毛並みは薄茶色、象なら灰色だ。
 だが、見えるはずのそれらはすべて濃淡でしか捉えられなくなった。
 人の目がおかしいわけではない。今まで生きてきた者が病に侵された痕跡は認められず、新たに生まれてくる者たちの角膜や水晶体にも異常はなかった。

 全ての人が正常なまま、全ての物が異常ないまま、ある日、世界は色をなくした。

 それはただ、それだけのこと。
 受け入れさえすれば、その後の混乱などなかったのだろう。だが、到底受け入れられることではなかった。
 突然変わってしまった世界に広まったのは終末思想だった。
 次の変異を恐れる声も高く上がり、ヒステリックに喚きたてる者、火事場泥棒のような似非科学者、俄かに世界の終焉と救世主の再臨を謳うカルトが増え、デマが飛び交い、犯罪率が上がり、自暴自棄になる人々も多かった。

 そして世界は、狂騒的な混乱を少しずつ鎮静化させながら、濃淡の時間を進みだす。




 あの時、注文する。と父に答えたことをアンナが後悔したことは一度もない。ただ、購入する問屋がどこにもないことには困った。世界の滅亡は色を失うという形で現れた。いまはすべてのものが白と黒の陰影でのみ存在を主張している。
 だから彼女は決心した。全ての色が失われた世界で、自分こそが色を取り戻す。
 はじめは賛同者もいたし、協力してくれる者もいた。しかし長い時の中、ひとり、またひとりと諦めてアンナの元を去っていった。
『色』を知っている者は年々減り、モノクロの世界しか知らない若者が増えた。
 それでもアンナは諦めない。
 自分がまだ行ったことのない地域はいくらでもあり、見ていないもの、知らないものはたくさんある。黒一色の果物だって、中を切って見るまでわからない。もしかしたら、そこには赤や緑の果肉が、果汁が詰まっているかもしれないではないか。
 手馴れた様子でくるりと蜜柑を剥くと、皮とは明度の違う黒色が現れた。つう、っと手の甲に向けて流れる白っぽい汁に今回もハズレを引いてしまったとアンナが溜息を吐きだして視線を動かす。
 アンナが自分の父から譲り受けたアトリエには、父が生きていた頃と同じく無数に絵が掛かっている。しかし、その中の景色は全て白と黒に変わっていた。風景画も静物画も人物画もなにもかもだ。
「これは何色、おばあちゃん?」
「これはね、黒だよ」
 嬉々として尋ねた孫のアルノーに優しく微笑んで溜息を呑みこみ、アンナは手の中の果物を見た。
 今まで幾度も引いたハズレ籤だ。慣れてはいるが、回数を重ねた今でもやはり辛い。興味しんしんに祖母の手元を覗き込んでいるアルノーを見て、アンナは「なんでもいいから、そこらへんの紙を一枚もっておいで」と言った。
 自分の子供たちですら、アンナの色探しを、年齢を主な理由に諦めるように諌めてくる。
 もう死ぬような老人だけがいまだに色だなんだと騒いでいるのだと、そんな連中にアンナがいつまでも付き合うことはないと心配する。
 そのなかで、幼い孫のアルノーだけはアンナを応援してくれる。そんなアルノーに、たまには落胆するようなことだけではなく、面白いものを見せてあげようと思ったのだ。
 素直に紙を持ってきたアルノーからその紙を受け取り、代わりに手の中にあった蜜柑の実を食べてしまうよう渡して勧める。
 美味しいと言いながら蜜柑を食べているアルノーがアンナの手元を注視する中で、彼女は蜜柑の皮を紙にこすりつけた。
「これで出来上がり」
「なにをしたの?」
 蜜柑を口いっぱいに頬張ったアルノーが祖母を見上げるとアンナはにやりと笑って、ライターの火で紙を炙り始めた。
 真っ白だった紙にじんわりと薄く黒い文字が浮かび上がる。魔法のように自分の名前が紙に現れたのを見て、アルノーはきらきらと表情を輝かせ、歓声をあげた。
「蜜柑を手に入れたところで流行っていた遊びさ」
「ぼくもやってもいい?」
「いいけど、火は危ないから母さんの居るところでやりな」
 残った蜜柑の皮をアルノーに手渡し、より強く文字を浮かび上がらせるためには直接皮を擦りつけるより、一度絞ってその汁を使ったほうがいいと教えて、アンナは楽しそうに駆け出す孫を見送った。



 がしゃん、と扉の向こうから聞こえてきた音に、アンナはアトリエの扉に伸ばした手を止めて顔を顰めた。
 まだ若かった頃、アルノーが生まれるよりもっとずっと前のこと。自身がまだ結婚さえしていない頃のことだ。
 世界が色を失ったばかりの頃、人々が心を壊していた時代のこと。

 少し考え、しばらく躊躇い、アンナはアトリエの前から踵を返し、街への道を戻りだした。
 いま、この中に入っても、誰も、何も、いいことなどひとつもない。
 あのアトリエの中には父が居る。
 とはいえ、それはアンナが好きだった優しい絵を描く画家の父ではない。
 色を失った世界は価値観を変えた。画家の父はその変容に呑みこまれた者のひとりだ。
 この世界に変わって、絵の評価を上げた者も居るし、見直された画風も画法もある。だが、繊細な色使いを特に高く評価されていた父の絵は、この濃淡の世界ではただの解りづらい絵ということになって大きく評価を落とした。
 それでも、はじめは父だって頑張っていたのだ。だが、父の絵が画壇に受け入れられることはなくなった。酒に逃げるようになってからは世間からも見向きされなくなった。それでもアトリエから離れられない父を、哀しいような、淋しいような、家に入ってこないことを安堵するような、自分でもよくわからない気持ちでアンナは見ていた。
 食事を届けに入るアトリエの中は一変していた。一度扉を開ければアルコールと糞尿の臭いが充満し、鼻が慣れるまで十分も耐えなければならない。父自身からも、近付くと例えようのない不快な臭いがした。
 昼夜を問わず、突然怒声と共に何かを殴っているのか暴力的な音が響く。切り裂かれた絵も、投げられでもしたのか壊れたイーゼルも多い。床は汚れ放題で、埃どころか硝子や金属が散乱している。掃除をしたくても父が側に居ると危険で、掃き掃除さえ容易ではなかった。
 食事を届けに来たアンナを、気にいらないことがあったのか怒鳴りつけることも多かったし、意味もなく殴ることも多かった。
 外に出れば出たで、父は近所の者や通りすがりに絡んでは喧嘩沙汰や迷惑を引き起こす。
 このまま、アトリエに一生篭っていてほしい。二度と顔を見たくない。声も聞きたくない。いっそ死んでくれたらどんなにいいだろうかと考えることさえある。
 優しかった、微笑んでばかりだった父の記憶だけ抱いていられたらどんなにいいかと。
 けれど心のどこかで、父にもう一度絵筆をとってほしいと思う自分も居るのだ。
 アトリエに居ることこそが、父が絵を諦めていない証のような気がして、もう一度頑張って欲しいと思う。また、あの絵を描いてほしいと思う。

 父が立ち直ってくれさえすれば、笑ってくれれば、世界がどんなに変わろうとこの家は幸せになるのだから。

 それまで温和な父とその絵に囲まれていた母も家庭が崩壊するのに合わせて体調を崩し、長く入院している。心の病はきっと父が立ち直るまで、この家に平和が訪れるまで、治ることは無いだろう。
 両親が働けない今は、アンナが学校を中退して新聞配達とカフェでアルバイトをし、生計を立てている。
(あたしも絵を描きたかったんだけどな)
 たくさんの優しい色に囲まれた父の世界で、同じように誰かを幸せにする絵が描いてみたかった。
 溜息をひとつ吐き出す。
 父はアトリエに篭っているとはいえ、それでも家の中に居るのは息苦しくて、思わず街へと戻ってしまったがそこでも息をつくことは出来なかった。
(余計なお金は使えないし、一度職場に戻ろうか)
 アンナの生活を知っているそこでなら、もしかしたらコーヒーを奢ってくれるかもしれない。
 さもしい考えだと自分でも思いながら職場に顔を出すと、カフェのオーナーは気前よく「サクラになってもらうから、一番いい席に座っていなさいよ」と窓際で日当たりのいい場所にアンナを座らせ、コーヒーと皿に盛ったクッキーを出した。真っ白に磨かれた陶器のカップの中で真っ黒なコーヒーがたぷんと揺れている。ざらざらしたクッキーの表面を陰影が彩っていた。
 父が落ち着くまで休ませてもらえたらそれでいいと職場に甘えに来たのは事実だが、こんなにしてもらっては逆に恐縮だ。
「オーナー、嬉しいですけど、でも、こんなにして頂くのは、ちょっと……」
「いいのいいの。それ、来月から出す新作のクッキーだから、味見してちょうだい。少ないけど、サクラのバイト代。感想も教えてね」
 お客さんが来たら、たくさん儲けさせてもらうからいいの。
 そう言って、オーナーはウインクするとカウンター奥の厨房へ戻っていった。
 まだ温かいクッキーを口に運ぶと、それは口の中でほろりと崩れて甘く香った。



「ねえ、『赤』ってどんな色? 『青』は? 『緑』は?」
 少し大きくなった孫の言葉に、アンナは「そうだね」と言葉を挟んで記憶をまとめた。
 何も不思議なことではない。『赤』も『青』も『緑』も、『黄色』や『紫』だって、見たことのないアルノーにはわかるはずがない。色を知っている者は全て老人になってしまった。そして色の無い世界でこれがその色だと示してやることは出来ない。
 色が消えて、例えば信号機が使えなくなった。赤と緑は彩度が違うだけで明度は同じものだったからだ。
 しかし、白と黒しかなくなった世界で、それでも人間は生きている。
 ふと、注文できるならしてみろ、取り寄せてみろと口汚く罵った父の唇が思い出されて、アンナは瞬間、顔を顰めた。
 まだアンナが幼い頃、なにを思ったのか、父は娘に問うたらしい。幼かったアンナにその記憶はない。

「もしも、世界から色が無くなったらどうする?」

 それに対するアンナはどこからか調達する気でいたらしい、注文すると答えたそうだ。
 成長したいまなら、絵の具じゃあるまいしどこで注文するのだと幼い自分に苦笑いしてしまう。
 それがただ、子供のころのいちエピソードで終われば良かった。
 そんなことがあったのかという驚きや本当にそんなことがあったのかという疑いや今すぐ反射的に言い返したところで面倒事が大きくなるだけだという諦観で口ごもったアンナを見て、相手を言い負かしたと思ったのだろう父は満足そうにその後も文句を垂れ流し続けた。
 出来もしないことをいうな。子供のくせに、女のくせに、俺の苦労が、怒りが、悲しみが、わからないくせに。絵のことも、世間のことも、何も知らないくせに。
 父だって、一時不満が解消できれば、対象はなんだってよかったのだ。どうせ、次の日には自分が言ったことなんてなにも覚えていないし、それが相手をどんなに傷つけたか、なんて考えもしない。ただ、一時でもいいから誰かの優位に立ちたいだけ。
 傷つくだけ、動揺するだけ、アンナ自身の損だ。
 それが解っていたはずなのに、その瞬間、アンナの我慢が限界に達した。
 それを言うなら、父だって今のアンナのことなど何もわかっていないじゃないか。
 アルコール中毒になった父と治るあてのない母を抱えて、行きたかった学校も辞め、生活を守ることしかできなくなった娘のことを、この人はなんだと思っているのだろう。
 そんなに色が欲しいならあんたが莫迦にしているこの自分が見つけて、なにもしないで引きこもるこの男に叩きつけてやる。
 あんたがどれだけなにもしてないのか、文句ばかりを口にしているのか、見せつけてやる。
 啖呵を切って、アトリエから出た。
 怒り狂っていたのに、父の機嫌を気にする自分がまだどこかにいて、足音荒くというわけにはいかなかったし、乱暴に扉を閉めて鬱憤を晴らすことも出来なかった。


 その日から、アンナの色探しが始まった。
 資金を援助してくれる協力者を探し、世界に色を求める人々と積極的に交流を持った。仲間が出来て、やがてアルバイトを辞め、そちらを本業にした。
 アンナが世界中を駆け回っているうちに、いつか吠え面かかせてやると思っていた父は、アトリエの中で、酒瓶ではなく絵筆を片手に握ったまま死んでいった。
 いっそ握っていたのが酒瓶だったら、本当に、心の底から見捨ててやれたのにと思ったものだ。
「おばあちゃん?」
 幼い声に呼びかけられて、アンナはハッと現実の世界に戻ってきた。
「ああ、ごめんね。色、だったね」
 顔を顰めた祖母の様子を心配したのだろう、眉を寄せて窺う孫にアンナは微笑みかけた。
 足元に咲いていた矢車菊を摘んで、アンナはアルノーに差し出した。
「この花の『青』はね、古くは宝石の最高級の誉め言葉として使われていた。いまは、どんな宝石だってただの石ころみたいな扱いだけどね、そのころ宝石ってのはただの硬い石じゃなくて、皆が喜ぶ石だったんだよ。この青を例えるなら、幸福、だろうね」
「幸福」
 花を手渡し、アンナは道を外れてとうもろこしの畑に入った。ぼきりと一本とうもろこしを折り取るとアルノーを振り返る。
「この黒は『緑』と呼ばれていた。表面は色が濃かったけれど、剥いていけば白く柔らかな色に変わる。この緑は、そうだね、生命力の表れ、とでも言おうか」
「生命力」
 繰り返す孫の言葉に頷きながら葉を剥いていくと黒かった葉は徐々に色を薄くしていき、最後には白っぽい実が現れた。それは重なる実が影を落とし、粒のひとつひとつまでくっきりと白い光に照らされる。
「この白は『黄色』。豊かな恵みを表す色さ」
 アルノーにとうもろこしを渡し「母さんに茹でてもらって食べるといい」と言うと、アルノーは顔を顰めながら受け取った。
「畑の人に怒られるよ」
「一本くらい、バレやしないさ」
 悪ぶってみせたアンナの言葉にアルノーが苦笑して、とうもろこしと矢車菊を合わせて持つと空いた手を差し出した。
「だったら半分にして一緒に食べようよ。おばあちゃんと一緒に食べたい」
 そのとうもろこしに色がついていたら、どんなにか嬉しかっただろうか。
 そんなことを考えながら、アンナは差し出された手を受け取った。



「ねえ、色が見つかったよ!」
 アンナが暮らすアトリエに、嬉しそうにアルノーが駆け込んできた。
 アルノーに引きずられて、食事時でもないのに自宅に向かった。娘はどうしているのだろうかと少し考えたが、どうやら買い物かどこかに出かけているらしく顔を合わせなかった。
 こっちこっちと嬉しそうにアンナの手を引いて、アルノーは自分に与えられた部屋の扉の前で一度アンナを振り返る。
 困惑している祖母の顔を見ながら、楽しみがそこに待っているように惜しみなく笑っていた。
「ちゃんと見てね」
 じゃあんっ、と楽しげな言葉と共に、木製の黒い扉は開かれた。
「……ッ!」
「すごいでしょう、驚いた?」
 得意気にアルノーが笑う。アルノーの部屋の壁は一面、濃淡のついた黒で覆われていた。
 燃え上がるように天井に伸びる黒を指差し、次に凪いだ水面のような灰色を指差し、または揺れる黒を指差しながらアルノーが言う。
「この『赤』は薔薇だよ。『薔薇は情熱的』なんでしょう? この『青』は矢車菊。『幸せ』に見える? 上に塗ったのは蜜柑。『橙色』は『嬉しい』でしょ? こっちの下にあるのは……」
 楽しげに紡がれる説明を耳の中に入れながら、孫の描いた作品をアンナは呆然と見ていた。『色』ではない。アンナの言う『赤』も『青』も『橙色』もここには無い。
 だが、懐かしいものが目の前にあった。
 父の描いていた絵と同じ、『喜び』がそこにはあった。
 黒の濃淡が描いた絵には、まだ色が溢れていたころ、父が喜びをもって描いていた絵と同じものがあった。
「……れで、こっちに丸く塗ったのはとうもろこしの『緑』で……おばあちゃん?!」
 楽しげな説明が祖母を振り返って途切れる。驚いたアルノーの姿を見て、アンナは自分が泣いていることに気付いた。遅れて頬に手を伸ばすと、そこは確かに濡れている。


 ずっと、『色』を求めてきた。
 少し前、アルノーと分け合って食べたとうもろこしも本来の色ならもっと美味しく感じただろうと思っていたし、食べながらそう言ったものだ。
 恋人が出来れば、その肌の温度を感じるたびに本当の肌の色が知りたいと思ったし、結婚して子供が生まれればその髪の色を知りたいと思った。他人も自分も全ての人が、判で押したような白い肌と黒い髪。それを見るたびに、この『白』は贋物だと憎み、この『黒』は、本当はどんなにか素晴らしい色だったのだろうかといつも考えていた。
 遠く遙かな昔、まだ子供だった頃。世界から色が失われて消沈する父の姿を見たときから、ずっと。


 自分が父に『色』を、笑顔を取り戻してやると思っていたのだ。


 知っている色ではないけれど、これは本物だ。
 本物の、『喜び』だ。


「素晴らしいね、これは、とても美しい絵だね」
 何故祖母が涙を流しているのか全てはわからないまま、誉め言葉だけを受け取って、アルノーは照れくさそうに頭を掻いた。








覆面作家企画5『色』に提出したものの改訂版になります。



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