Drop me a note.




 曇天の下でザーザーと雨が降り続いている。後者と体育館をつなぐ渡り廊下からひとりの少女が飛び出した。
 土砂降りの中に飛び出して、両手を伸ばし、気持ち良さそうに千尋がくるくると踊る。晴れた日なら広がっただろうセーラー服は大粒の雨の所為で千尋の白い足に纏わりついている。
「あーっはははっ!」
 諦めた、諦めた、もう何もかも諦めた。
 来週から学習塾に行くことになる。部活動に力を入れていられるのはあと一週間。なんて短くて貴重な一週間だろう!
 飽きもせず、重い雲の垂れ込める空を見上げて、顔を打つ雨粒に目を細めながら千尋は腹の底から笑う。
 もうおしまいだ。
 幼い思考は簡単に将来の夢を諦めた。両親の希望に従って、学習塾に行って、高校に行って、大学に行って、仕事を選んで。
 もう自分の夢は追えないんだ。
 落胆しすぎて笑うしかなかった。無茶をするしかなかった。このまま風邪でもひいてしまえばいい。そうしたらきっと、少しは気分もスッとする。
「ざまーみろ!」
 なにが、ざまーみろ、なのか、千尋にもわからなかった。両親も自分も世の中もみんなざまぁみろだ。
 自分が情けなくてやっていられない。
「千尋?!」
 驚いた声が千尋の耳に届く。学生服を着ている幼なじみが慌てている。
「あははははーだ!」
 陽向は左腕で顔を庇いながら走ってくると、右腕で千尋の左腕を掴んだ。
「戻るぞ、風邪ひいちまう」
「ひいたっていいもん!」
「バカ!」
 陽向に怒鳴られて千尋は一瞬びくりとする。けれど、緊張はすぐに弛緩した。学習塾に行く。そのことが千尋の思考をとても狭い物にした。
「バカでいいもん! もう書けないもん!」
 怒鳴り返し、嫌がる千尋をずるずると雨の当たらない渡り廊下まで引っ張っていく。体育館では運動部の掛け声や床を踏むシューズのキュ、キュッという音が聞こえる。校舎の中ではそれこそ吹奏楽部は音楽に励み、美術部は描き、そして、そして……文芸部は書いているのだろう。
 反抗して荒い息をついている千尋に、陽向はポケットの中を漁って、一粒のキャンディを取り出す。小包装を外すと自分の口にではなく、千尋の口に押し込んだ。
 甘い苺の香りが口から鼻へと抜けていく。
 驚いて陽向を見た千尋の髪からぽたぽたと雫が垂れた。
「書けないってことはないだろ、時間が少し減っただけじゃないか」
「無理だよ、もう書けないよ」
「だから、無理ってことはない。いま塾に行ってたって、それだっていつまでもじゃないだろ」
「だって! その間に書けなくなったらどうするの? 興味が持てなくなったら? 書きたいのに書けなくなったら?」
「そのときはそのときだ」
「他人事だと思ってえ〜〜」
 陽向に泣き顔を見られたくなくて、濡れた制服もかまわずに千尋はしゃがみこんだ。両腕の中にすっぽりと顔が納まる。濡れた袖の気持ちの悪さなど、書けないという現実に比べたらたいしたものではなかった。
「他人事じゃない」
 上からムッとした声で陽向が言う。
 それから気配。目の前に手が差し出されている気配に千尋がそろそろと顔を上げた。上げるとき、こぼれた涙を拭う事も忘れない。
「なんで俺が文芸部に所属してると思ってる。俺はお前のファン一号なんだぞ」
 差し出された小さなメモには英語でひとこと、
『Drop me a note.』
 それから11桁の数字の羅列。
「……なにこれ」
「意味は自分で調べろ。塾に行くのはどうしようもないけど、愚痴くらいならいつでも聞いてやるし、励ましてやる。お前は書けるよ、絶対。塾に行ったくらいで書くのをやめるもんか!」
 差し出された紙を千尋が受け取ると、そう言って、陽向は顔を赤らめた。
「早く体操着にでも着替えろよ、風邪ひくな。部室で待ってるからな!!」
 ばたばたと陽向は校舎に向かって走り出した陽向を紙を握ったまま見送って、千尋はゆっくりと立ち上がった。


 Drop me a note.

 連絡ください。



「〜〜〜毎晩電話してやるんだからね、これでもかってくらい愚痴を聞かせてやる」
 雨に打たれて冷え切ったはずのその頬は赤い。その頬をごしごし擦って、千尋も校舎に向けて歩き出した。
 絶望の淵から、未来へと。








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