1章




「野次馬が多いな」
 攫われたシャニプリヤの屋敷の前でキルスが顔を顰めた。
「まあ当然だよね、魔物が人を攫うなんて珍しいもの。より詳しい話のタネを探しに来るのは当たり前」
「儲けるチャンスだしね。もっともあんなやり方は同じ商売人として恥ずかしく思うけど」
 ラズーライトとジェイドが顔を見合わせて頷きあう。
 屋敷の前では娘を攫われた陰鬱な気配など微塵もない。いや、家人はそれぞれ悲しみや不安の中に居るだろうが、周囲はそうではない。事件を調査しに来た役人はもとより、噂を聞いた野次馬、彼らを相手にしてるのは同じころ彼女と一緒に居た者たちだろうか、それぞれが得々と集めた人だかりに自分が目撃したものを語っている。その話を持ち寄って暇人たちが情報を交換している。その野次馬たちを煽って本当に効果があるのかわからない魔物除けの札を高値で売りさばこうとする商人や、そんな方法は消極的だと武器を売りつけに来ている者もいる。そんな固まりがあっちこっちに入り乱れ、屋敷の前はむしろ活気づいて騒々しい。
「市場かっつの」
 苛々した様子でキルスが文句を言ったのと同じタイミングで、ゴーシェが屋敷の入り口から顔を見せた。
「待たせたな。お前たちも中に入っていいそうだ」
 屋敷の前に集まる人だかりは家人のこともシャニプリヤのこともまったく思いやる光景ではないから、家人は騒がれるのを嫌がって奥に閉じこもってしまったのだ。
 地元の人間の強味、もしくはゴーシェの人柄だろう。同じ公爵家の出とは言っても、キルスの言葉は家人に取り次いでさえもらえなかったのだ。
 門をくぐる。門扉が閉まると外の喧騒が遠くなった気がして、キルスは少し息を吐き出した。こんな騒動が起きたのは自分の所為だと見せつけられて、より気が重かったのだ。
「シャニプリヤが心配だな、こんな騒ぎになってしまって」
「よりにもよって『花嫁』だしね。もう結婚できないね」
 眉を曇らせたゴーシェの隣で「『穢れた女の子』になっちゃったね、真偽はともかく」とラズーライトが追い打ちをかける。
「助かっても辛いかもねえ」
「それは可変しい! 彼女は被害者なんだ! 助けなきゃいけないし、守られるべき立場で「だから、俺たちが助けるんだよ、ね?」
 激昂しかけたゴーシェをジェイドが宥めた。
 まだ勇者候補たちにシャニプリヤを救い出してほしいという依頼は来ていなかった。四人が一番乗りする格好だ。ゴーシェが声をかけたうち、快諾してくれた者たちはゴーシェの屋敷で待機している。
「どんなことがあってもゴーシェが味方になってあげればいいじゃない。俺たちがこの目で見て『穢れて』なんていないって保証して後ろ盾になれば、シャニプリヤだって好きな人ができた時に気兼ねなく結婚できるよ」
 ジェイドの提案にそうか、とゴーシェが得心した顔になる。
「よし、俺は生涯かけてシャニプリヤの名誉を守ろう」
 愁眉を開き、誓いを立てたゴーシェの隣で、キルスの表情は渋い。
 そんな保証、公にシャニプリヤを貶す者が居なくなるだけで陰では一生言われ続けるだろう。消えない烙印を押されたも同然だ。そして押してしまったのは自分だ。
「……おい、もうすぐ屋敷の扉に着くからな。中でそういうことは一切喋るなよ」
 ジェイドは抜け目ない。人の縁はすべて商売に繋がると思っているところがあるから、わざわざ他人に嫌われようとはしない。だから彼にはこんな忠告は要らない。
「はぁい」
「もちろんだ」
 面白がるような声音のラズーライトと誠実そうなゴーシェの返事が重なって、キルスはふたりを睨みつけた。
 性質は真逆だが、このふたりが心配なのだ。
 事態を面白くするためだけにラズーライトは一言余計なことを言いかねない。今の一幕でも知れる。ジェイドが丸く収めてしまったから良かったが、あれでゴーシェは会ったこともない娘の名誉を守ると誓ってしまった。
 ゴーシェはこのとおりのお人好しが災いして、目の前の問題と不安で心がいっぱいになっている相手に、もしかしたら娘の純潔のことまで思いついてもいないかもしれない家人に「俺が娘さんの名誉を守ります」などと先取りして言いかねない。どちらの場合もただ騒動を広げるかより迷惑になるだけだ。
 屋敷の扉を開くと、召使が出てきた。若い男だ。
「こちらへ。ご案内いたします」
「ありがとう」
 召使の表情は暗く硬い。ゴーシェが応じて、四人は先導する召使についていく。
「ねえ、君はその魔物を見た?」
 口火を切ったのはラズーライトだった。横目で睨みつけたキルスを無視して「外で噂されてたけどね、あんなの嘘か本当かわからないでしょう? もしも見たなら、どんな魔物か正確なところを教えてくれないかな」と話しかける。
「……詳しくは、旦那さまが申し上げると思いますが」
 躊躇いながら召使が口を開く。
「恐ろしい魔物でした。姿は猿のようで、毛並みは赤く、けれど人の背丈よりずっと大きくて、まっすぐお嬢さまを狙って……!」
 召使がぐっと息を詰まらせた。感情が不安定になっているのが傍目からでもよくわかる。シャニプリヤと特に親交があったのかもしれない。
 案内する足を止めて、召使が振り返る。視線がまっすぐキルスを見た。
「お嬢さまをきっと助けてください」
 振り返って視線を合わせて、それがあの夜、魔物に攫われると不安を訴えていたシャニプリヤの隣にいた召使だと気付く。
 咄嗟に視線を逸らせたキルスの隣で力強くゴーシェが頷いた。
「もちろんだ。俺たちが必ず助ける」
「ありがとうございます」
 召使の表情が少し緩んだ。ぺこりと大きく頭を下げて「足を止めさせてしまい、申し訳ありませんでした」と再び歩き始めた。ジェイドとラズーライトが先行する形になる。歩き損ねたキルスの背を大きな手で励ますように叩いて、ゴーシェが歩みを促した。




「……廃屋? そこに籠ってるって言うのか? 魔物が?」
「そうらしいんだけど、魔物が人間ごっこなんてするかなあ?」
 訝しむ声音で言葉を繰り返したキルスに、同じく疑わしい声でジェイドが応じた。
 家人からの話はあまり参考にならなかった。四人がしてきたことは、家人が口々に、涙ながらに訴える不安を受け止めてきたことくらいだ。
『人の背丈より大きな赤い毛並みの猿っぽい魔物が月を背負って屋敷の窓を破り、周囲の人間には脇目も振らず、邪魔をする者はなぎ倒し、怯えていた娘を攫っていった』
 外で噂されていたこととなにも変わりがない。
 四人はその後、屋敷に残っていた仲間にも協力してもらって野次馬に吹聴している自称当事者たちに聞いて回り、目撃者を探して『夜に大きな影が南の廃屋に向かっているのを見た』という情報を得たのだ。
 テーブルを挟んで、キルスとジェイドがソファに座っている。キルスの席はふたり掛け、ジェイドの席はひとり掛けだ。隣にもうひとつ、空いたひとり掛けのソファがある。
「まあ、家に住んでるから人間扱いって言うのも変だけど」
 聖都アストリオテスの一角、南の方角には貴族の屋敷が固まっているところがある。その片隅にひっそりとその廃屋はあるという。
 もとは誰かの屋敷だったのか、かなり立派な代物だ。だが古い。廃屋というとおり、人も住んでいない。いつ取り壊されてもいいようなものなのに、まだ取り壊されていなかった。
「そうでもないさ。魔物は元は人間だもの」
 部屋に入ってきたラズーライトが面白そうに笑う。ジェイドがラズーライトを振り返った。
「まあ人間じゃないときもあるけど、だいたい人間でしょ? 怒りや憎しみ、悲しみ恨み、失望落胆時には好意や善意までこれ全て行き過ぎればもう人間ではいられない」
 喋りながら歩き続け、ジェイドの後ろに立つ。ラズーライトの口元には薄く笑みが刷いていた。背の高いラズーライトを座ったままジェイドが見上げる。
「だから変だって言ってるんじゃないか、人間をやめたものが人間と同じ行動をするかな?」
「するさあ。だって、いまぼくが拾ってきた話だとね、シャニプリヤに懸想して、こっぴどく振られた男がいたらしいよ。そんな男が魔物になったら、シャニプリヤだけを狙って、彼女を自分のものにしたいと思うこともあるんじゃない?」
 ぱちぱちとジェイドが瞬きした。意外な情報だったらしい。
「それ、裏取れてるの?」
「もちろんそっちも取ってきたよ。彼はしがない木工細工職人で、自分が作ったものを行商して歩いてたんだって。バレッタやブレスレット、ペンダントにブローチ。まあ宝石や銀細工に手の届かない人たちからは人気があったらしい。シャニプリヤとの出会いもそれさ。とはいえ、彼女にしてみれば木で作ったもので身を飾るって言うのが物珍しかっただけみたいなんだけれど。
 贔屓にされて優しい言葉をかけてもらってさらに注文までされて、そうこうしているうちにけっこう長い付き合いになったみたいだよ。私的な会話もするようになったらしい。
 まあ、舞い上がるのも仕方ないよねえ。
 心を込めて持てる技術の全てを使って、それはそれは美しいはめ込み細工の指輪をひとつ作ったそうだよ。それを彼女に持って行って、身分違いの恋だから、付き合ってくれとは言わない。ただ想いを込めたこの指輪を身に着けてくれないかって頼んだらしい。それだけで自分は満足するからって。なかなか身を弁えているよね、シャニプリヤは下級とはいえ、貴族だもの。職人なんかと結婚できないよ」
 ラズーライトの言葉にジェイドが苦笑いした。向かいでキルスが顔を顰める。
「身を弁えて、かあ」
「そいつ莫迦だな。黙ったままなにもしなければ良かったのに」
 ふふ、とラズーライトが笑った。
「キルスの言うとおりだよ。シャニプリヤはこの求愛に相当驚いたらしくてね、かなり手酷く彼を振ってしまったらしい。彼はその後、すっかり萎れてしまって家から出てこなくなってね。そうこうしているうちに行方知れずだよ。シャニプリヤが攫われるまで、近所の人や知り合いは傷心のあまり旅に出たと思っていたんだって」
「そいつが魔物になったって確証は?」
「それはまだない。でもかなり黒に近い灰色だね。他にシャニプリヤに絡んだ悪い噂を聞かないよ」
 詰問口調のキルスにラズーライトが答える。
「ふふ、人の心は怖いねえ。ぼくには魔物になるほど誰かを好きになるなんて出来そうもない」
「俺には少し、わかる気もするけれど……」
 ジェイドがぽつりと言った。キルスとラズーライトの視線を受けて「だって、好きになるって理屈じゃないよ」と弁解がましく続ける。友人たちの顔色を窺うように上目遣いのまま「身を弁えられるなら恋じゃないよ」とまとめた。
「それでもそいつは莫迦だろ、魔物なんかに成り下がりやがって」
「それはそうかもしれないけど!」
 吐き捨てたキルスにジェイドが怒りを露わにする。ラズーライトの話を聞いてよほど木工細工職人に入れ込んだらしい。
「それだけ本気で好きだったんじゃないか! なら、報われなかったのは可哀想だ!」
「初めから報われないってわかってたんだから、自分から傷付きに行くのが阿呆だって言ってるんだ! 夢で終わらせておけば綺麗なままでいれただろ! そうしたら誰も傷つかなかったんだ!」
 テーブル越しに角突きあわせるふたりを他人事のような顔でラズーライトが観察していると、再び扉が開いた。
「ジェイド、なんかお前の……兄さん? 家族が来てるぞ」
「え?!」
 困惑した様子で顔を出したゴーシェに話題の全てを放り出し、驚いた顔でジェイドが立ち上がる。
「え、え、え、ネフラが?」
 続いて口にした女性の名前にゴーシェが変な顔をした。
「ああ、確かにネフラ・イト・フェイエルだと名乗っ……あ、おいっ」
 ゴーシェの脇をすり抜けて、ジェイドが部屋を走り出る。廊下の向こうからジェイドにぶつかられたのか、驚いた声が聞こえてきた。
「どうしたんだ、あいつ。急に」
 毒気を抜かれたキルスの呟きは誰にも拾ってもらえなかった。
「お客さんは男なの? 女なの?」
 終わってしまった話題より興味を惹かれたのだろうラズーライトに尋ねられて、正直にゴーシェが答える。
「男……だと思うんだが。ただ名前が……女性のもので、よくわからないな。背も高いし、てっきりジェイドの兄かと思ったんだが……姉……いや、まさかな」
「じゃあさ、行ってみようよ。ジェイドの兄弟ならもうぼくらの友達じゃない。挨拶して、仲よくさせてもらおうよ。それに、シャニプリヤのことにも協力してくれるんじゃない?」
「そうか、そうだな。よし、俺たちも挨拶に行こう」
 ゴーシェが視線でキルスを促し、キルスが立ち上がった。



 ジェイドと同じ薄茶の髪は短く刈られ、ラズーライトより背は高く、ゴーシェより引き締まった身体。キルス並みに端正な顔立ちでありながら翠色の瞳はどこか優しい。
「……兄だな」
「兄だね」
「兄だろう?」
 他にフェイエル兄弟の姿に気づいた者たちと一緒に少し遠巻きにしながら、キルスとラズーライトとゴーシェは認識を共有する。ふと周囲を見ると「あれはどう見ても兄貴だよな」と同意が返ってきた。
 再会を喜んでいるのだろう、ジェイドの口元はずいぶん緩んでいる。そのジェイドを年上の余裕をもって優しく兄が受け止めている。そういう姿にしか見えない。
「というか、すごくかっこいいよね。優しそうだし、女の子にもてそう。キルス、妬かない?」
「うん。なんだか負けそうだな、キルス。でも、人生は女性に好かれた数が大事なんじゃないぞ。好きな人をどれだけ大事に思えるかだ」
「俺は誰にも負けねえーっ!」
 友人にからかわれてキルスが興奮してわめく。その叫声にジェイドとネフラが集まっていた人だかりに気づいた。
 緩みきった顔をずっと見られていたことに思い当たったジェイドが顔を赤くする隣で、ネフラが大きく一歩を踏み出した。少し遅れてジェイドが続く。
 ネフラがぴたりと立ち止まった。奇しくもキルスと向き合う形になる。
 白い肌はわずかに日に焼けている。よく見れば唇もかさかさだし、髪は傷んでいるのだろう、毛先がまとまっていない。手入れをしていないことは明白である。いや、肌の手入れをするような男は貴族か王族かよほどの豪商くらいのものだが。
(……って、フェイエル商会は『よほどの豪商』か)
 となれば彼は身なりをあまり構わない性質なのかもしれない。どちらにしろ、そんな男は女性にもてるまい。
(よし、俺の勝ちだ!)
 キルスが確信したころ、沈黙を守り、じっとキルスを……周囲に居るゴーシェやラズーライト、他の面々を見ていたネフラが不意に破顔した。静かで理知的だった表情が笑顔ひとつで天真爛漫で屈託のないものに変わる。
(あ、これはキルス完全に負けたな)とネフラ本人を除いたその場の全員が思った。
 女性に格好をつけることが多いキルスには、こうした隙だらけの笑顔なんて浮かべることができないのだ。
「兄が長らくお世話になっております。改めまして、妹の、ネフラ・イト・フェイエルと申します」
 愕然としたキルスの周囲がどよめいた。キルスは敗北感でまだ思考が働かない。
「いもうと、なの? じぇいどの、あに、じゃなくて、いもうと?」 
「はい、妹です」
 信じられないと言いたげにラズーライトが空しく口を開閉させる。ネフラの視線がラズーライトからゴーシェに移った。
「先ほどは失礼いたしました。まさかお屋敷の主人とも知らず、不躾にも兄を呼ばせるようなことを頼んでしまい――――」
「あ、いやそれは、別にいいんだが」
 しばらく視線が彷徨ってから「すまない」とゴーシェが切り出した。
「なんでしょう?」
「ここにいる全員――――貴女を男だと思っていた」
「よく言われます」
 ネフラが苦笑した。
「慣れてます。なにせこの容姿なので。ですからどうぞ、そんなに恐縮なさらないでください」
「ネフラはケラウニウスでもファンクラブがあるくらいかっこいいんだから!」
 ネフラの腕を掴んで、ジェイドが我がことのように自慢する。話がずれることに気づいていないらしい。
 その様子を見ながら、どう見てもネフラが兄でジェイドが妹だと全員が意見を一致させた。兄妹の故郷のケラウニウスでもきっとそう思われているんじゃないだろうか。
「キルスなんか敵わないんだから!」
 ネフラが兄をちらりと見て、その視線の先のキルスをすぐに見つけ出す。瞳が優しく微笑んで、そのままジェイドに戻った。
「そんなことないよ、兄さん。あの人のほうがずっと格好いいよ」
「違うよ、ネフラが一番なんだ」
「……女が女にもてるのが一番でどうするんだ……」
 呆れたキルスの独白を聞きつけてぎろりとジェイドが睨みつける。よく言い争いはするが、それでもこんな顔で見られたことはなくて、キルスがわずかに怯んだ。
「私の一番も兄さんだよ」
 それを宥めるようにネフラがジェイドの髪を撫でてあやしているのを見れば、どちらの精神年齢がより上かわかろうというものだ。
「そうだ、宿は決まってるのか? もし決まってないならこの屋敷に……ああ、いや。俺が宿を探そう」
 容姿の第一印象が抜けず、思わず声をかけてしまったゴーシェが言葉を濁す。
「ありがとうございます。でも、宿はもうとってしまったので、ご厚意だけいただきます」
「ネフラはどうしていまここに来たの? 勇者選抜大会の応援というか、観戦に来る人たちが居るのは確かだけど、ハイライトはもう少し先だと思うよ?」
 ラズーライトが尋ねた。
 競う内容が多いうえ、地味なものや女性的なものもだいぶ多い。観戦に足るような拳闘や剣技はだいぶ後だ。
 人の好みもそこらへんに集中しているのだろう、弓比べや槍術の時には観戦しようという者が多かった。
 そこまで思い出してから、ラズーライトは自分の考えを改めた。
 そんな時よく目立つのはキルスだった。
 子供のころから正しい剣技を仕込まれているのに加え、よほどセンスがあるのだろう、戦うことに関してキルスは図抜けている。
 ジェイドの身内なのだから、ジェイドがうまくできる競技を見にきたのだろう。ジェイドは戦うことよりも話術や接待などの駆け引き、料理や刺繍のほうが得意だった。
 ゴーシェなら馬だ。ただの弓比べではキルスに敵わないくせに、これが馬に乗って行うとなればキルスを凌駕してしまう。
 三人の誰もに敵わないが、ラズーライトはあまり気にならない。自分が勇者になれるかどうかよりどれだけ長くこの勇者選抜大会おまつりが続くかのほうが気になっている。
「ジェイドの応援に来たんだね」
 ラズーライトの言葉に恥ずかしそうにネフラは笑った。
「いえ、いや、ええ、というべき、かな。どうしても兄さんに会いたくて、我慢できなくて、とにかく家を飛び出してきちゃったんです」
 妹の言葉に両手を組んでジェイドが感動しているが、周囲は退いた。
 これが小柄で肌も白くて眼も大きくてさくらんぼ色の唇を持っているような……ようするにジェイドのようないかにも『美少女の妹』が言うならまだ兄のジェイドを羨ましがれる。けなげな妹だなと言ってもやれる。だがはにかみ頬を染めて打ち明けているのはどう見ても男なのだ。性別が女性だとわかっていても。
 そしてネフラの様子以上にその妹の姿を見て歓喜に震えているジェイドが理解できない。
 最高の妹だ、可愛い、俺の理想だ、ネフラに向けられたジェイドの賛辞の全てをキルスもラズーライトもゴーシェも周囲も全員が聞かなかったことにした。
「それより兄さん、ちょっと噂を聞いたんだけど、女の子が魔物に攫われたんだって?」
 賛美され慣れているのか兄の言葉を軽くいなしてネフラが問いかける。うん、とジェイドが頷いた。
「町の人に話を聞いたら、ブラスティ家に居る勇者候補たちが頑張ってくれてるって教えてもらってね。そこで兄さんの名前を聞いてここに来たんだ。もし兄さんがこの事件に協力してるなら、私にも協力させてほしい。なにより兄さんの力になりたいし、こう見えても私は女だから、彼女の心を少しは慰められると思う」
 申し出は、すでに町の中にシャニプリヤの生死どころか純潔を疑う噂が出ていることを暗に告げていた。
「そんな危ないこと、ネフラにさせられないよ!」
「嬉しいなあ、ありがとう!」
 ジェイドの否定とラズーライトの感謝の言葉が同時に答えた。
 ジェイドを押しのけ、ラズーライトがネフラを見上げた。
「ラズルダズル! 相手は魔物なのに!」
「どれだけ心配してもぼくたちは男だもの、きっとわからないことや至らないことも多いと思うんだ。シャニプリヤは必ず助けるよ、死んでいない限りね。でも、ぼくらじゃ彼女の傍に寄り添うのは難しいと思ってた」
 ちら、とラズーライトがそこでジェイドを見た。
「ジェイドもそう思うだろ? いくら女の子ぽいって言われたって、女の子の気持ちがわかる?」
「それは無理だけど……でも、なにもネフラがそんなことしなくてもいいじゃないか」
「シャニプリヤの身体だけ助ければ後は放っておいていいのかい? 心や世間体、そういうものは見捨てるのかい?」
「そういうわけじゃないけど、でも、それはシャニプリヤの家族がすればいいじゃないか」
「ぼくは、シャニプリヤが助かったあとに歪んだ目で彼女を見ない人が必要だと考える。もちろん家族や今迄の友人知人だって大事だよ。でも彼らはこの事件の前と後でシャニプリヤの変わった部分を見つけ出そうとするんじゃないかな。意識してそうしなくても、ある日ある時、ふとシャニプリヤを『前と違う』と思うかもしれない。その気付きはシャニプリヤを傷つけるだろう。
 でもね、その点ネフラはまさに適任だよ。なにせ前のシャニプリヤを知らない。事件のことは知っているけど、歪んだ情報を耳に入れないようにしているんだ。そのぶんシャニプリヤを傷つけることなく彼女の傍に居られると思う。心を慰めてもくれるだろう。なによりネフラが自分からそれを申し出てくれたんだよ。ぼくたちはそれに甘えるべきだと思う。
 それともジェイドは可愛がっている妹の交友関係に干渉したいと思っているのかな? それは本当に妹を愛していると言えるのかい? ただ支配したいだけなんじゃないかな」
 畳みかけられてジェイドがなんとか否定する。妹はもちろん可愛い。だが彼女を管理したいわけではない。
 こんなことばかり目の前で言われては、大好きな妹が自分のことを誤解するかもしれない。
 ネフラは自分の理想だ。美しく男らしい容姿も穏やかで思慮深く頼もしい性格も。その彼女に軽蔑されたり嫌われたりするのは耐えられない。
「良かった、ジェイドが見た目どおりの優しい人で。尊敬できるぼくの友人で」
 ラズーライトが笑ってみせるが、ジェイドは良い顔をしなかった。
「ところでネフラはもしかして武術なんかやっていたりするんじゃない?」
「ええ、弓が得意なんです」
「じゃあ、もしよかったらシャニプリヤを助けに行くとき、一緒に行ってもらえるかな?」
「喜んで」
「ラズルダ」
 深い湖畔の底のように静かな藍い視線がジェイドを見る。それだけでジェイドは口を閉ざした。ネフラが心配だと言えばシャニプリヤを大切に思っていない、そういうふうに会話を誘導されたのだ。
「大丈夫だよ。私は兄さんより弓が上手いし、それに絶対に無茶はしない。約束するよ」
「ネフラ……絶対だよ」
「うん。私は兄さんを困らせるようなことはしない。兄さんが一番大切な人だから」
 傷ついた兄の心を慰めるようにネフラが笑った。



 ネフラを宿まで送っていく。とジェイドが言って、それを見送った。
 久しぶりに逢った兄妹だ。積もる話もあるだろう。終始ラズルタズルに翻弄されて、兄妹はほとんど会話していない。
 兄妹の後ろ姿が遠ざかるにつれて、ぱらぱらと集まっていた仲間がそれぞれ元居た場所や用事を済ませに散っていく。
「ラズルダズル、さっきの、ジェイドのことだが。いくらシャニプリヤのことを心配していても、ああいう言い方は良くないと思うんだ。ジェイドにも良くないし、シャニプリヤの家族や友達にも失礼だ」
 最初こそ歯切れの悪かった呼びかけは、意思を込めてすぐに滑らかになる。ゴーシェに忠告されて、そうだね。と素直にラズーライトは頷いた。
「ぼくも言い過ぎたと思うんだ。でも、ネフラがシャニプリヤのことを心配してくれてるんだっていう気持ちが嬉しくて、ぜったい仲間になってほしいと思っちゃったんだ。
 シャニプリヤのことを一番わかって支えてくれるのは、そりゃ家族やそれまでの友人だよ。当たり前だ。ネフラだってそれはわかってると思うよ。ネフラがシャニプリヤにできることって言ったら、ちょっとした息抜き。なにも知らない相手にだけは話せることってあるだろ。その程度、パスタに最後に振りかけるチーズ程度のことさ。でも、全く意味がないわけじゃない。そういう相手は意外に大切になったりもするし、シャニプリヤの心が助かれば、それはそれでいいと思うんだ。
 ジェイドには嫌われたかもしれないけど、しょうがない、悪役になるよ」
 顔を伏せたまま、寂しそうにラズーライトが言う。
「悪役になるなんてさびしいことを言うな。俺たちは友達じゃないか」
「うん、でも、きっとジェイドには嫌われたよ。だって、妹が大事なんだってすごく伝わってきたじゃないか。それなのに巻き込んじゃって。もう友達じゃないと思われたかもしれない。
 ジェイドが妹を心配する気持ちは……正直、ネフラのほうがしっかりしてるからわかるとは言い難いけれど、でも兄が妹を心配する気持ちはわかるよ。これでもぼくは弟妹が多いんだ。
 無理を通して、ジェイドには本当に悪いことをしたと思うよ。だから許してもらえないかもしれないけれど、あとで謝るよ」
 気落ちした姿にゴーシェが「大丈夫だ」とラズーライトを励ます。ありがとう、とラズーライトは弱々しく笑い返した。
「ラズルダズルとジェイドはすごく仲がいいじゃないか。だからきっと、ジェイドもラズルダズルの気持ちはわかっていると思う。ちゃんと謝れば、許してくれるさ」
 不意に遠くから名前を呼ばれて、ゴーシェが声のしたほうを振り向く。
「行きなよ、ゴーシェ。励ましてくれてありがとう」
 すまないと断って、翻しかけた足をふと止める。
「きっと仲直りしてくれよ」
「もちろんさ。ジェイドとは友達だもの」
 ラズーライトの言葉に、安心したように笑みを見せて、ゴーシェが歩き去っていく。
 ふたりきりになって、笑顔を消したラズーライトがちらりとキルスを見た。
 促すような視線にキルスは口を開いた。
「お前、本当はただネフラを巻き込みたかっただけだろ」
 キルスに問われてラズルタズルがくすりと笑った。キルスの表情もジェイドのように渋い。とはいえ、ジェイドと同じ気持ちではないだろう。
「うん。だって、あの体格ならたとえ女性でも戦えるんじゃないかって思ってさ。ジェイドは男だけどけっこう女の子らしいこと得意だろ。だからもしかしたらフェイエル家では性別にとらわれずに教育しているのかなと思ったのさ。案の定で良かったよ。魔物相手なんだから仲間は多いほうが良いよね?」
「……確かに、そうだが。俺はお前みたいなやり方は好きじゃない」


 とにかく必ずジェイドに謝罪しろ。
 ほぼ命令の形でそう言って、キルスも歩み去っていく。
「本当に、キルスもゴーシェも、正義漢だよね。理想家というか夢想家というか」
 ラズーライトの口元が不意に歪む。誰もいない場所で、彼を見ている者はひとりもいなかった。
「ふたりとも、だいきらい」




 / 目次 / 3




inserted by FC2 system